キンバリー・クレンショー『人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評』(1989)

根来美和と丸山美佳による現代の芸術実践に重要な論文やテキストの勉強・研究・翻訳プロジェクトの第一弾は、黒人弁護士であり社会運動家のキンバリー・クレンショー“インターセクショナリティ”についての論文「人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評 (Demarginalizing the Intersection of Race and Sex: A Black Feminist Critique of Antidiscrimination Doctrine, Feminist Theory and Antiracist Politics)」(『The University of Chicago Legal Forum 140』 139-167頁 、1989年)。以下は要旨と抄訳です💫

🌟キンバリー・クレンショーについて🌟

1959年生まれ。コロンビア大学ロースクールおよびカリフォルニア大学ロサンゼルス校の法学部教授であり、公民権、ブラック・フェミニズム、人種問題、人種差別、性差別、および法律の分野で執筆を行っている。とくに人種差別と性差別のなかで見落とされていた黒人女性と法律の問題を“インターセクショナリティ”の問題として語ったクレンショーの研究は、偏狭な反人種差別主義やホワイト・フェミニズムを批判し、その後の人種と性差別の言説や行政に大きな影響を与えた。以降、階級や人種、性的指向、年齢、宗教、信仰、障害、ジェンダーなど複数の要因によって生み出される抑圧や支配、差別のシステムがどのように構築され、複雑に関係しているのかを導き出す研究が現在まで進められている。

🌟論文アブストラクト🌟

経験や分析の分類において、人種とジェンダーを相互に排他的なカテゴリーとして扱う傾向があるために、ある問題が生じている。本稿は、差別禁止法において優勢である単軸的な枠組みがこの傾向を存続させ、さらにはフェミニスト理論や反差別主義政治にもその枠組みが反映されていることを考察する。ここでは黒人女性に焦点をあて、彼女たちがいかに理論的に消去されているのか、また、単一の軸しか考慮出来ない枠組みがいかにフェミニストや反人種差別者の分析を拡張する努力を弱体化させているのか、その理論的限界を明らかにしたい。さらに単軸的な枠組みの教義的現れを考察し、それがフェミニスト理論と反人種差別主義政治における黒人女性の周縁化にどのように作用しているかを論じる。 フェミニスト理論と反人種差別主義政策の双方が個別の経験を前提とし、たいていの場合それらが人種とジェンダーのインターセクショナリティ(交差性)を正確に反映しないため、黒人女性はしばしば両者から排除されてきた。両者の言説が黒人女性の経験や懸念を包含するためには、枠組み全体を見直し一新する必要があるだろう。本稿では、インターセクショナリティを考慮しないために、黒人女性に関して正当に展開されたいない理論と政治の例として、レイプと分離領域イデオロギーに対するフェミニスト批判、そして黒人コミュニティにおける母子家庭を取り巻く公共政策についての討論を取り上げる。

🌟論文目次🌟

1. 反差別の枠組み
  A. インターセクショナリティの経験とそれに対する教義的応答
  B. 教義的にインターセクショナリティを扱うことの重要性
2. フェミニズムと黒人女性:「私たちは女ではないのか?」
3. いつどこに入るか:性差別に対する分析を黒人解放主義政治に取り込む
4. インターセクショナリティを取り入れ、フェミニスト理論と反人種差別主義政治を拡張する


1. 反差別の枠組み

A. インターセクショナリティの経験とそれに対する教義的対応

p.145 
(…)多重に不利な立場にある階級が他の何か一つのことで不利な立場にある者を代表することを拒否することは、確立されたヒエラルキー内の機会の分配を再構築する努力を打ち負かし、改善のための救済を控えめな調整へと制限してしまう。 その結果、雇用システム全体に異議を唱えるためにすべての被差別者を結びつける“ボトムアップ”アプローチは、間違ったことに対する限られた見方と利用可能な対策についての狭い視野によって排除されてしまう。 このような”ボトムアップ”でインターセクショナルな表現が日常的に許されていたとしたら、[人種差別と性差別を受けている] 従業員たちはそのヒエラルキーの中で各々の被差別者が個別に特権の源を保護しようと探し求めるよりも、そのヒエラルキーに集団で挑んだほうが、より獲得するものがあるという可能性を受け入れるかもしれない。

p.149
 この明らかな矛盾 [黒人女性は黒人が受ける人種差別においては女性であるからこそ黒人を代表をできず、性差別においては黒人であるからこそ女性を代表できない]は、単一の問題として分析することの概念的限界の別の現れにすぎないのであり、それこそがインターセクショナリティが課題とするものである。 重要なのは、黒人女性はあらゆる方法で差別を経験する可能性があり、この矛盾は彼女らの排除の主張は一定方向にしか進まないという私たちの仮定から生じているということである。 四つすべての方向に出入がある交差点の通行に例えてみよう。 交差点の往来のように、差別は一方向に流れるかもしれないが、別の方向にも流れる。 交差点で事故が発生する場合、それはあらゆる方向から、時にはすべての方向から来る車によって引き起こされる可能性がある。 同様に、黒人女性が交差点(インターセクション)にいるために負傷したとするならば、彼女の傷は性差別または人種差別に起因する可能性があるのだ。

B. 教義的にインターセクショナリティを扱うことの重要性

p.152
 差別に関するこの優勢な考えが狭い範囲しか考慮せず、厳格に定められたパラメーターでは経験を説明しきれないような人々を除外する傾向にあるにも関わらず、この[単一の問題として分析する]アプローチは様々な問題に対処するために適切な枠組みであると見なされてきた。人種やジェンダー、階級における特権を享受する者以外の人々の生活に注意を払わなくとも、性差別や人種差別に関する有意義な議論は可能であるという意見のもとに、多くのフェミニスト理論において、また反人種差別主義政治においてもある程度は、この枠組みが反映されている。その結果、フェミニスト理論と反差別主義政治のどちらもが、部分的に、人種差別を中流階級の黒人または黒人男性の身に起こったことと同一視し、また性差別を白人女性に起こったことと同一視しながら体系付けられてきたのだ。
 フェミニストのコミュニティーと公民権を訴えるそれにおいて、歴史的また現代における論点を見てみると、両コミュニティーが差別に関する優勢な考えを受容しているがために、それらがインターセクショナリティの課題に対処するために適切な理論や実践の発展を妨げてきたことが分かる。差別を単一の問題として扱うこの枠組みを適用すると、彼女たちを有権者の一員だと主張するまさにその運動のなかで黒人女性が排除されてしまうだけでなく、人種差別や家父長制に終止符を打つという幻の目標を達成することがより困難になる。


2. フェミニズムと黒人女性:「私たちは女ではないのか?」

p.154
 黒人女性に対するフェミニスト理論の価値は軽視されているが、なぜならその理論は白人の人種的文脈から発展したものであるからであり、そのことはめったに認知されることはない。実際に有色人女性は見落とされているだけでなく、その排除は白人女性が女性たちのために女性として話すときに強化されている。権威ありげな普遍的な声 ー人種やジェンダーが関係ない客観的であると見せかけているたいていは白人男性の主観性ー は、ジェンダーを除けば、同じような文化、経済、社会的特徴を共有する人々に譲渡されるだけである。フェミニスト理論が家父長制やセクシュアリティ、または分離領域イデオロギーの分析を通して女性の経験を描写しようとするとき、人種の役割は見落とされがちである。フェミニストたちはしたがって、自分たちの人種が性差別のいくつかの側面が軽減されるように機能しているのかを無視し、さらには、それがしばしば特権を与え、他の女性を支配する一因となっているのかを無視しているのだ。 その結果、フェミニスト理論は白人的なもののままであり、非特権的な女性に取り組むことでその分析を拡大し深化させる可能性は未だに実現されていない。

p.155-156
(…)フェミニストたちは、本質的に相違するものとして男性と女性に割り当てられた社会の役割を伝統的に正当化してきたステレオタイプを特定し批判することによって分離領域イデオロギーを暴き解体しようとしてきた。しかし、女性の従属を行うイデオロギー的正当化の仮面を剥ぐための試みは、黒人女性の支配に関しての見識をほとんど示さない。多くのフェミニストの洞察の根拠となる経験的基盤は白人のものであるため、そこから引き出される理論的記述はせいぜい一般化されすぎているか、しばしば間違っている。 (…) しかし[分離領域イデオロギーの]“観察”は人種差別と性差別の相反する流れによって生み出される例外的なことを見落としている。黒人コミュニティにおけるジェンダー支配のイデオロギー的説明を発展させる努力は、横断的支配力がどのようにジェンダー規範を確立し、黒人従属の条件がこれらの規範へのアクセスを全面的に妨げているかを理解することから始めるべきである。

p.156-157
 家父長制のイデオロギー的かつ記述的な定義は、大抵の場合白人女性の経験を前提としているため、フェミニスト文学から知見を得ているフェミニストやその他の人々は、ある間違いを犯しているかもしれない。つまり、家族やその他黒人組織における黒人女性の役割が、白人コミュニティーの家父長制によくある現れと必ずしも共通する訳ではないために、どういうわけか、黒人女性が家父長制の規範から免除されていると思い込んでしまうのだ。例えば、白人女性の労働力率とは比にならないほど多くの黒人女性が従来より家庭の外で働いてきた。家父長制の分析が白人女性が仕事場から除外されてきた歴史を強調するならば、黒人女性はこのような特定の性差に基づく期待から免除されてきたと推論できるかもしれない。しかし、黒人女性は働かなければならないというこの事実こそが女性は働くべきではないという規範と相反するため、黒人女性の生活において個人的かつ感情的な人間関係の問題が度々生じてしまう。したがって、黒人女性は伝統的には女性が負わない責任を頻繁に負わされているだけでなく、黒人コミュニティにおいてこれらの役割は、そのような規範に従った生活ができない黒人女性の失敗と見なされるか、あるいは黒人コミュニティーに対する人種差別の惨事の異なる現れと見なされる。そういうわけで、黒人女性は双方から重荷を負わされているのである。これは、白人の経験に基づいた家父長制の分析では理解することのできない、インターセクショナリティが内包する数ある側面の一つである。

p.158-160
 女性のセクシュアリティに対する男性権力の現れとしてレイプに単一的に焦点を当てることは、人種的暴力行為の武器としてレイプが使用されるということを覆い隠す傾向がある。黒人女性が白人男性にレイプされるとき、それは一般的な女性としてではなく、とりわけ黒人女性としてレイプされている。つまり、黒人女性の女性性は彼女らのセクシュアリティーを人種差別的支配に対して脆弱化させる一方で、黒人であることは効果的に彼女らのあらゆる保護を否定するのである。この白人男性権力は、黒人女性をレイプした白人男性の有罪判決はほぼ考えられなかった司法制度によって強化されている。
 要するに、貞操という性差別的期待と性的乱交という人種差別的仮説が結合してしまっているため、それが黒人女性が直面する他とは異なる一連の問題を生み出している。 (…) その結果として、黒人女性は、理解できないことではないがおそらく、性暴力の問いを法廷で争う試みに疑いを持って見ている黒人コミュニティーと、白人女性のセクシュアリティーに焦点を当てることによってこれらの疑いを強化するフェミニストのコミュニティーとの間で板挟みにされている。この疑いは、白人女性のセクシュアリティの保護がしばしば黒人コミュニティーを弾圧する口実であったという歴史的事実によってさらに拍車がかかっている。今日でさえ、反レイプが取り組む課題は反人種差別の目標を阻むかもしれないと恐れる人がいる。人種とジェンダーの交差(インターセクション)によって生み出されるパラダイム的な政治的かつ理論的なジレンマである。つまり、黒人女性は、まずは黒人女性の経験を作り出し次にそれを葬り去るように結びついたイデオロギー的かつ政治的風潮の間に挟まれているのだ。


3. いつどこに入るか:性差別に対する分析を黒人解放主義政治に取り込む

p.160
19世紀の黒人フェミニスト、アンナ・ジュリア・クーパーは、人種の優位性に対処するために家父長制の明晰な分析を取り入れる必要性を評価する上で有益な言葉を残している。クーパーは、黒人の指導者や代弁者をしばしば批判し、彼らが人種のために語るに留まり、黒人女性のために語ることに失敗していると指摘した。(…) クーパーは、反撃した。「黒人女性だけがこう言うことができるのです。私がその時間、その場所に入ることを許された時、、その時その場には、私と共に全てのニグロが入ることができるのだ、と。」

p.162
 問題は、アフリカ系アメリカ人が単により重大な課題に巻き込まれているということではない。ブラック・フェミニズムを敵対視する努力がこのような思いこみに基づいているとしても、黒人コミュニティの問題を正当に認識すれば、性の従属性が多くの黒人女性の貧窮した状況に大きく影響を及ぼしていることや、それゆえにこの問題に取り組む必要があることが明るみになるだろう。さらに、単一の論点しか取り上げない枠組みに対する前述の批判が、人種差別に対する苦闘が性差別に対する苦闘とは区別できるもので、ましてや性差別より優先視されていない、という主張を厄介なものにしてしまう。一方で、黒人女性が黒人男性と共に経験する人種的他者化の政治のせいで、黒人フェミニストの意識がホワイト・フェミニズムの発展を手本にできないでいることも事実である。つまり、家父長制が黒人コミュニティにおいて根付いていることは明らかであり、それが黒人女性を脆弱な立場に置くような支配の根源を示しているにも関わらず、彼女たちが身を置く人種的な文脈では、黒人男性に反抗するような政治意識を生み出すことは難しい。


4. インターセクショナリティを取り入れ、フェミニスト理論と反人種差別主義政治を拡張する

p.166
 人種による従属を特徴付ける制約と条件から黒人を解放するための真の努力がなされるとき、黒人コミュニティのニーズを反映することを主張する理論と戦略は、性差別と家父長制の分析を含まなければならない。同様に、フェミニズムが非白人女性の切望を表したいと願うときは人種の分析を含める必要がある。黒人解放主義政治もフェミニスト理論も、その運動が各々の構成要素であると主張する人々のインターセクショナルな経験を無視することはできない。黒人女性を含めるために両運動は、明確で特定可能な原因(たとえば、黒人の抑圧は人種に基づく場合において重要であり、性別に基づく場合は女性であること)に関連する場合にのみ経験を重要視するという以前のアプローチから距離を置く必要がある。両実践は、困難の原因に関係なく取り組むべき人々の人生の機会と状況を中心とすべきなのである。

1 Comment

  1. [両実践は、困難の原因に関係なく取り組むべき人々の人生の機会と状況を中心とすべきなのである]で結ばれる最後の言葉は我が意を得ている。
     私は1975年アメリカから帰国後、黒人女性の運動はfeminismではなくwomanismとして、区別していたと記憶している。要するに、feminismは白人女性の運動と考え方だと黒人女性から思われていたからだ。この後、韓国=日本間で従軍慰安婦問題が持ち上がった。ここには、日本人の性差別主義と韓国朝鮮人に対する民族差別主義がインターセクショナルに存在しているのだが、それに気づかない日本人(女性)が多い。その裏返しが韓国・朝鮮人女性への無理解につながっているのではないか。
     そういった鈍感さが、戦後、進駐軍の行った日本女性への行為と、それを用意した日本政府に対して怒りの行動をとらなかったの関係していると思う。その辺をもう少しきちんと整理して考えたいと思っている。

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