Multiple Spirits

2020-10-23

インタビュー 遠藤麻衣 × 百瀬文:書き換えたり書き換えられたり

2020年7月にTalion Galleryで開催された展覧会、遠藤麻衣 × 百瀬文「新水晶宮」(2020年10月3日 〜11月3日に京都VOU/棒に巡回)でマルスピを知ってくださったり手に取ってくた方が多く、その感謝も込めて、おしゃべり作品のおしゃべり、アーティスト二人のインタビューを公開します。
「新水晶宮」での共同制作に始まり、二人の関心事や実践が交わり拡張されたり変容したりしていくこと、そしてファンタジーや赦しの話まで、おしゃべりは終わらないよ!
(2020年7月18日zoomで収録後、加筆修正)

写真:金川晋吾

丸山美佳(以下、🌵):展覧会に『マルスピ vol.2』を置いてくれたおかげで、私たちの力だけではなかなか届かない層にまで届いたようでとても嬉しいです。残念ながら私は会場に行けないのだけれど、展覧会に来た観客の反応はどうだったの?

遠藤麻衣(以下、🍋):展覧会は二つの映像作品が一望できるインスタレーションとオブジェが一つ展示してあって、喋り声がずっと空間に響き渡っている感じ。その声の印象が強いのか、粘土の映像《Love Condition》(2020)の感想がすごく多くて私は意外だった。視覚的なインパクトっていうと、砂漠の映像《Love ConditionⅡ》(2020)が強いと思ってたんだけど。

百瀬文(以下、🍑):おしゃべり自体をそのまま作品化するってことが新鮮だったみたいで、それでつい聞き入ってしまうみたい。「あ、本当にそのままおしゃべりしてるんだ」みたいな。

🍋:砂漠の方は、なんじゃこの生き物はっていう反応かも。

🌵:映像見ながら一人で大笑いしちゃったんだけれど、カメラアングルによっては特撮やSFの映画を思い起こさせるのに、途中からナショナルジオグラフィックの生物の生態をずっと見ている感覚になった。

🍑:感想もいろいろあって面白かったなぁ。作中のおしゃべりではいろんな話題が生まれては過ぎ去っていくから、人によって興味のあるポイントが変わってくる。話題がまるで行ったり来たりする波のように展開するのは面白がってもらえたかな。あとは「性器」って性愛だけの器官じゃないから、「気持ちいい」とか「快楽」って単語が出てくるとちょっと萎えちゃうっていう人もいた。他にも、ペニスはおしっこする器官でもあるから、そこを考えてみてほしかったとも言われた。逆に美佳ちゃんは良いなって思ったところある?

🌵:作品を見て率直に思ったのは、姿が見えてないけど二人が滲み出てる作品だなって思った。二人ってアーティストとしての作風もパーソナリティも全然違うじゃん。作中で、百瀬さんは世界にとってどういう意味をなすのかっていうことを考えながら作っている一方で、麻衣ちゃんがそれを切り崩して行く感じがあって、そのバランスは、麻衣ちゃんだけでも百瀬さんだけでも成り立たない絶妙なバランスだなぁと。他者と触れあう場所って自分だけじゃコントロールできないって話を何度もしていたと思うけど、それは二人の関係性のなかにもあったし、現在の状況も反芻しながら見てたかな。あと、粘土も砂漠も盛り上がりがずっと気になっていたし、その形態を変えたり這いつくばりながら、象徴的なものを作ったり壊していく力の潜在性が一体となっている過程みたいなものを見せられた気がした。印象に残ったのは、おしゃべりの後に手を合わせる無言のシーンが逆に凡庸に見えたことだった。緊張感を起こそうとしている場面だし、確かにインテンスな雰囲気のなかの力学みたいなものを感じる場所なんだけれど、映像のなかで強さを感じたのはおしゃべり途中の何でもないところだった。

🍑:私はおしゃべりと粘土コネコネを通じて、自分が麻衣ちゃんにマッサージされたような感覚があった。冒頭はボケとツッコミみたいな感じで、私がファシリテーターみたいに麻衣ちゃんの言葉を鑑賞者に向けて翻訳しているような感覚があったんだけど、だんだん自分が論理的に把握することができなくなる段階があって。その手遊びの中に自分の身体ごと参加することによって、どこかで整理することをやめた。だから、だんだん私の発言もわけがわからなくなっていくというか。最終的には「この性器を通して過去や未来の人ともセックスできるようになるんだよ」とか、前半と比べるとすごい飛躍したことを言っている。自分の中のマスキュリニティがほぐされるって感じが個人的な体験としてはあったかな。鑑賞者が見たらまた違うんだろうけど。

🌵:それは伝わったんじゃないかな。最初はお互いに何を前提とするのかを探り合うみたいな感じが伝わってくるから、見ている方もある程度のガイドが必要となる。それを百瀬さんがやろうとしているようにも思えた。初めにペニスと穴のようなものを作っていたけど、所々で「女と男を前提にしたほうがいいのか」みたいなことを投げかける。けど、お互いにそれに答えないし「どうだろう…」みたいに濁す。性器の生成をするっていったときに、その前提がどこに置かれているのかがよくわからないから、鑑賞者は逆に自分の前提がどこなのかを省みちゃうような気がした。二人はどこを前提とするのかを話していたの?

🍋:決めてなくて。打ち合わせで何かを話しちゃうと本題に進んでしまうし、そうすると撮影のときには打ち合わせで話したことを繰り返すことになってしまうから。だからなるべく核心というか、この話題について話すのは撮影まで控えていた。

🍑:打ち合わせをすることでグルーヴが失われてしまうのが良くない気がしてたし。私のパートナーは、この作品を見たときに「そこちゃんと決めてないのかよ!」みたいな気持ちになったと言ってた(笑)。でもそこが決まってないことによって、ザワザワするというか、そこでやきもきしてしまう自分というものに気づかされたと言ってたな。

🍋:私は作品を見てくれた方から、まさに今言っているようなメールをもらったよ。「全く前提がわからなかったから、何か参照している文脈はありますか」って。

🍑:そういう無防備に始めていることがこの作品では意味があると思っていて、こういう話題に触れるために「防備」しないといけないということ自体が、もしかしたらおかしいのかもしれない。

🍋:わりと迂闊なことを言っているもんね(笑)。

🌵:人によっては、その無防備さに耐えられないのかもね。それでもおしゃべりが成立しているから、そこに何かがあるんじゃないかと思ったりしてしまう。あとは「理想の性器」という文言だったり、ファン創作のカップリングとか、ちょいちょい意味ありげな文脈が差し込まれている。このあたりについてはどう話し合っていたの? 

🍋:展覧会をやるって決まったときになぜかお互いに「オメガバース」(*1)を前提にしようっていうのは初期プランからあった。でもそのファンカルチャーを題材に進めていくと、私たちのオタク度では敵わないし、それを掘り下げていくのは展示としても難しいねってなって。だからオメガバースの文脈よりも、「理想の性器」をダイレクトに考えた方が二人でやる作品としてはいいんじゃないかと。

*1: BLの設定の一つ。男女のほかにα、β、Ωの3つの性があり、その3つの間にはヒエラルキーが存在している世界。少数派であるΩは男女問わず妊娠可能な身体を持ち、定期的な「発情(ヒート)」により無自覚にαとβを誘惑してしまうことから社会的弱者であったり忌避される設定がされている場合が多い。アメリカのファンカルチャーから生まれたといわれており、発情の他に「番(つがい)」など狼の生態を真似ている。

🌵:オメガバースの性器が変化するっていう想像はそのままに…。

🍋:そうそう!

🍑:オメガバース自体がまだ認知度も低いし、その紹介みたいになっちゃうのは避けたかった。あと、オメガバースの設定を考えていくと子どもを産む役割の話に寄っちゃうから、そうではなくてもっと身体自体の話がしたかった。

🍋:うん、生殖の話とは切り離して考えたかった。

🍑:作中でも早々とその話題は切り上げていたしね。

「新水晶宮」展示風景(タリオンギャラリー)

🍋:最近読んでいたオーラル・ヒストリー・アーカイブに、九州派の田部光子さんの《人工胎盤》(1961年、2004年再制作)について書いてあって。妊娠していた頃に、女性の妊娠からの解放という意味を込めて作られたオブジェなんだけど、2000年代に南嶌宏さんが再制作をお願いしたときに、田部さんはあまり作りたがらなくて。初期作品は、逆さにしたマネキンに釘を打ちつけたり穴を開けて胎盤のようにしたりで痛々しさがあるものだったらしいんだけど、再制作では釘などを取っ払ってピンクのフワフワした可愛らしい子宮になったんだって。その経緯をまとめた中嶋泉さんの報告で赤瀬川源平の《ヴァギナのシーツ》の制作態度や評価との違いが述べられてるんだけど、田部さんが作ると「あなたの子宮」って捉えられていたんだなって思った。(*2)

*2: 60年代に当時周りから「あんたこんな作品つくりよったら、変な子ができるばい」って言われたことなどに影響を受けているように思われる。『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ』「田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月29日」「シンポジウム『戦後日本美術の群声』(2017年7月9日)」 

🍑:女性作家が女性器を扱うとドキュメンタリーとして認識されてしまう構造があるのかも。実際はオブジェにする過程ですごく客体化しているはずなんだけれど、周りがそれを許さず「あなたの子宮」になってしまう。一言も自分の器官なんて言っていないのに。

🍋:一方で男性の作家が女性の身体を扱っても、日常における感性と完全には切り離せないと思うんだよね。自分の身体をキャンセリングして話しているときには違和感を感じてしまう。「男性」でくくっちゃうのは大雑把な話ではあるんだけど…。

🍑:だからこそ現代は男性作家は大変だろうな、と思うときがある。安易に女性を客体化したイメージを使うと、その必然性を問われる世の中だから。昔みたいに無邪気に扱えないよね。

🌵:でも逆に、「僕は男性だから」って話をはじめたりする人がいるけど、そこに続くのは「わからないということを前提にしています」となる。その線引きは分かり合えなさを受け入れようという態度よりも、予防線を張っているように見えるし、こういう話題になったときは結局のところ、男性という単一的なアイデンティティの視点でしか物事をみていないのかな、って疑ってしまうこともあったりする。

🍋:あいちトリエンナーレで東浩紀さんがアドバイザーだったときのトークイベントでも、そういう話し方をしていたよね。なんでアフォーマティブ・アクションが必要かって言ったら、男性の身体ではわからない、女性の身体でしかわからないことがあるからだって。

🌵:もちろんある程度のアフォーマティブ・アクションは必要だけど、構造的なジェンダーやそれに基づく性差に依拠したアイデンティティをわからなさの理由にするのはどうなんだろうかと思う。

🍑:そうすると女性の身体を他者としてみなすことから逃れられないよね、結局。そこに限界を感じるし、それだと女性の身体を持った人しか語る資格がないことになってしまうから、私はそれはしたくない。

🌵:仮に複数の「女性」がいたとしても、身体上で経験や行動として物質化するものは異なるし、それは「女性だから」あるいは「女性の身体を持っているから」という言葉だけでは語りにくいものが圧倒的に多い。ただ一方で、社会的なカテゴリーとして「女性」に入れられることで、その構造が生み出す差異によって生まれる経験だったり差別というものは強調し続ける必要があると思う。この違いって難しいんだけど。

🍑:連帯して声をあげないとそれは見えてこないし、でも気をつけないと、誰かにとってはある同一化を強いる抑圧になることもある。このバランスがいつも難しいよね。私の中には相反する感覚があって、自分の身体は自分のものだって強く思う一方で、私の身体がgoogle documentみたいになったらいいのになって思うことがある。いろんな人が編集したり、消したりして、私の身体を書き換えてくれたらいいのにって。そういう身体のあり方にすごく憧れる。もちろん自分の身体を自分で所有している感覚は大事だけど、一方で「私の身体」なんてものが本当にあるのか? という問いも自分の中にある。そういう矛盾については考えていきたいと思うし、身体はgoogle documentなんだよってーー私の「身体ーテキスト」を誰かが中に入り込んで編集して過ぎ去っていく、そういう経験があったとしたらとても素敵だと思う。

🍋:素敵、私も手塚治虫のムーピーや初音ミクみたいだったらって思うことがある。

🌵:違う回路が開いてきた…。身体の変容のプロセスが自分からだけではなく外圧というか…?

🍑:「圧」っていうと少しネガティブな響きだけれど、あらゆる人とのコミュニケーションが私を変えうるっていう感じかな。批評ってもともとそういうものだと思っていて。批評が世界の新たな見方を与えてくれるわけだけど、それってその人が持つ「テキスト」を書き換えるようなものじゃないかな。そうなると、それぞれがgoogle document的な身体を持っていて、書き換えたり書き換えられたりするし、それが許されている。その「許し」の構造というか、信頼性というのが面白いなと思う。

🌵:粘土はそういう感じじゃなかった? お互いに作るけど、勝手に作り変えちゃったりしていた。二人はおしゃべりしていたけれど、あの作中で実際に書き換えられていたのは粘土だった。二人が前提も決めずに手を動かしながら思ったことを言葉に出していくのは、本人も粘土も一体となって関係性を含めて変容していくプロセスにあるようにも見えたよ。

🍑:可塑性のあるものを使うのはいいなって思っていて。思考って迷うし。おしゃべりって「あ、今のやっぱりなし」とかちょっと考えてリセットすることあるじゃん。そういうことを形でも具現化できたらいいなと。

🍋:SF的要素も大事にしていたから、粘土は大地として見立てていて、そこから二人で生命を作るっていう風にも見えたらいいなって。

🍑:いろんな神話にもあるけど、神様が土から人間を生み出すみたいな。あと展示空間の奥には砂丘の映像もあるから両方とも風景に見えるし、粘土は横たわる人の体にも見える。試しにいわゆるデフォルトのペニスを作っているときとか、横たわっている人のペニスを触っているような気分にもなった。土ってやっぱり生物と結びついたものだと思うし、はるか遠くまでに広がる大地とも繋がる。抽象的な意味での土や大地でもあるし、アダムが土の塊だったっていう身体の象徴でもある。土というものを通して肉のことを考えるというか。

🍋:あと、映像の黄色い背景や展示空間の照明は、人工太陽のイメージもあって。黄色は、平塚らいちょうの「原始、女性は太陽だった」っていう世界観から、もっと人工と自然との境界が曖昧になった現代っていうマルスピ的な文脈の意識もある。

《Love ConditionⅡ》 (2020)

🌵:この生き物のサンプルみたいな写真が送られて来たときに、二人が性器についての作品を作っていることは知っていたから、「ああ、二人の身体は性器そのものになったんじゃないか」って勝手に思ったんだよね。また二次創作の話になるけれど、ケモナーとかファーリー・ファンダム(*3)とかもいるわけじゃん。

*3: 全身もふもふな「ケモノ」キャラクターに萌えを感じたり、性的興奮を覚えたりする人を意味して俗に用いられている語。Furry Fandom(ファーリー・ファンダム)というコミュニティーもあり、擬人化された動物を愛好したり、「ファースーツ」と呼ばれる着ぐるみに身を包み、キャラクターになったりする。

🍋:そうそう、この生き物も、最初はファーリー・ファンダムのファースーツ的なアイディアから出発しているんだ。でも、二人でデザインしていくうちにだんだん手足や目と言った人間ぽい要素がなくなっていった(笑)。オメガバースも狼の習性から設定がきているんだけど、ヒエラルキーがとても強くて。SNSを見ていると、キリスト教で罪とされる同性愛を肯定する設定とも言われていたりする。ファースーツも、もしかしたら性愛の禁止から離れて性行為を楽しむための表象って意味もあるのかもしれない。そう考えると、抑圧や禁止を前提にした打開策的な動物じゃなくて、もっと不自由な動物へむかいたいってのはあったかな。

🌵:動物についてもうちょっと聞こうと思うけど、百瀬さんは過去に獣姦を作品で扱ったり、麻衣ちゃんは最近は動物との融合というか同一化について考えているわけで、ひとまず二人は人間の身体を持っているけれど、人間ではないものとのつながりを考えていると思うんだけれど、その点からはどうだろうか? 

🍋:いろいろあるけど…. まずはさ、「女」が動物と同等のものとして考えられていた、つまり人間(=男)とそれ以外みたいに分けられていた時代があったわけじゃん。

🍑:その「獣姦」を扱った私の作品にはヤギが出てくるんだけど、ヤギはかつて兵士の性欲処理として扱われていたっていう都市伝説があるんだよね。そういう嘘か本当かわからない歴史に興味があった。それならだんだんと戦場にヤギがいなくなっていったのは、結局のところ占領した土地の女性たちにその役割が担わされるようになったからなんじゃないかって。だから、女性の身体を持っている私が、かつてそうして犯されてきたヤギとメンタリティを共有することはできるのだろうか、っていうところが始まりだったんだよね。でもあるとき年配の男性アーティストにその作品を見せる機会があって、すごく怒られたんだ。彼は、マスターベーションとレイプの問題は全然違うって言っていて、ヤギの問題はあくまでもマスターベーションで、植民地の女性に対するレイプとは違う問題だって言っていた。私はなんでヤギのことをレイプの問題として扱えないんだろうって思ってたんだけど、そのときは彼の勢いに飲まれて言い返せなかった。動物と人間という関係の非対称性と、男性と女性の関係の非対称性をそれぞれもうちょっと丁寧に考えてみたいと思ったことはあった。

🌵:その非対称性の関係って、作中でも「暴力」とか「刺さる」とかの言葉として出てきていたよね。関係性の中にはなんらかの非対称性を含んでしまうかとは思うんだけれど、二人はその非対称性から違う関係性を作ろうとしていた。例えば、性器の一部を自らのなかに取り入れてしまったり、ポータブル性にしてしまうとか。

🍑:移動するのとか面白いよね。

🍋:あのあたりを喋ってたときに印象的だったのは、百瀬さんが他者っていうことをすごい気にしてるんだなっていうことだった。性器を作ったり誰かとセックスをしたり性的な接触をするときに、「これだと他者がいなくなるね」とか。ポータブルになったときは、そのポータブルになった性器が他者なのか、あるいはそれを持っている持ち主が他者なのか、あの辺りで揺れ動いている感じがした。

🍑:麻衣ちゃんは、あれ(性器)自体が他者だったんだよね。

🍋:私にとってはあの小さな生き物が完全に他者だったから、逆に、これが他者じゃなくなることもあるのかぁって気づかされた感じ(笑)。

🍑:あの時点ではたぶん私は、性器というものが自分に帰属するものだと思っていて、移動もできるけどラジコンみたいに所有の概念があったんだと思う。麻衣ちゃんが「これが他者だよ」って言うから「え、そうなの?」ってなった(笑)。結構そういう瞬間は何回かあって、麻衣ちゃんが「こうだよね」みたいにいうから「あれ、そうだっけ?」みたいな。

🍋:その場の思いつきだけどね(笑)。粘土がそう見えるから、そう発言しているというか。粘土力がすごく強くて。

🌵:造形の力ってことかな? 

🍋:だってここにあるじゃん、というのが説得力になる。

🍑:逆に私は考えを具現化するものとして粘土を捉えていて、麻衣ちゃんが「これはこう」って断定するから、最初の方は私は「なるほどね」しか言えてないんだよね(笑)。私の中でおしゃべりのために一つルールを決めていたんだけれど、麻衣ちゃんの言葉を否定しないってことだった。否定しないことで、強制的に無理やり引き受けた上で喋る、みたいな。

🍋:そのおかげで、かなり私は救われた。私は、何か喋ったときに「それはちょっと難しい」とか「あーなんかそれは違う」みたいな、言ったことに対して否定されるとその先が喋りづらくって苦手意識がある。百瀬さんが否定しないっていうのをやってくれたおかげで、何喋っても大丈夫って言う気持ちになれたから、それはすごい大事だなぁって。

🍑:実際は心の中で「それにどう返せばいいんだよ!」とか思って混乱しているんだけど(笑)、でも「そうか、なるほどね」ってとりあえず言ってみることが重要なんじゃないかと思った。そこで、どうやったら自分が納得できるんだろう、どう説明できるんだろうっていうふうに思考が進んでいく。カップリングにも受けと攻めがあって、一応今回の展示は「遠藤麻衣」が先にきているから、一応私は「受け」なんだよね。だから、受けた上で返そうと思っていた。

🌵:作中では、復唱し合うというか、二人で聞き合って了承し合う状況もあったよね。二人の受けと攻めの関係性もちょいちょい変わるんだけど、それは映像でお互いの身体が見えていないことが重要なのかと思った。これに関してはどうかな? 二人とも作品のなかで自分を登場させてきているよね?

🍋:自分の身体が見えていないのは今回すごく大きいことだと思った。粘土の映像では手しか映らないし、着ぐるみを着ている方では、中に誰が入っているかわからなくてアノニマスになっているというか。普段、例えばヌードのパフォーマンスをしたときも、ただの物体として見てもらえないというか、脱いでいるのに「遠藤麻衣」が脱げないというか、社会性がかえって出てきてしまうように思ってたんだけど、今回はそうゆうもどかしさをすっ飛ばせた感じがしてすごく楽しかった。

🍑:生き物を被った映像を編集している時に、お互いに「めっちゃ可愛い❤︎」とか言っていて、自分たちなのにすごい変だなって思ったんだよね。すごい第三者感があった。

🍋:話が飛ぶけど、百瀬さんの《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》(2019)をアプリで男性化したのがすごく面白くて。

🍑:(笑)これ、ありえたかもしれない自分の別の人生をもう一度生き直しているみたいな気分になるんだよね。むしろポジティブに私は面白がってしまったんだけど。

🌵:(笑)あのアプリを見ていると、世の中のテクノロジーがどこでどんな表象的なカテゴリーを作り出しているかについても考えてしまう。まあ性器もそうじゃん。会話で出てきた性器の整形は一般的に行われているし、一方で、私たちは生まれる前からどんな性器がついているかで性ないしはジェンダー化されてしまっているし、トランスジェンダーが手術を受けるための判断にも外性器の見た目で判断されていたりする。

🍑:会話の中で、膣の緩みを解消するためにヒアルロン酸を打つのが流行ってるっていう話題が出てきたよね。そこで思ったのは、膣の緩みを改善するモチベーションって、より「愛される」体になるためというか、単純に男性を喜ばせたいからとか、そういうことなのかなと。でも、そうじゃない性器の整形ってあるんじゃないかな。例えば、自分の性器を見て自分自身がエンパワメントされるみたいな性器の形ってどんなものが可能なのか? 男性器は包茎手術とかあるけど、それは自分に自信がつくからなのか、それとも女性がそのほうが喜ぶからなのか、どっちなんだろう? 自分を鼓舞するためなのか他者に向けられたものなのかって、結構モチベーションの行き先が気になった。

🍋:ろくでなし子さんは、確か小陰唇を整形したんだよね。彼女の場合は、ウケるからやったって書いていた (*4)。話をすると他の人もウケるし、自分もウケる。ちょうど最近、ろくでなし子さんの女性器の3Dデータのわいせつ性が認定されたという判決が出ていたね…。

*4:『iRONNA編集部』「ろくでなし子が闘うホントの理由」

🌵:今回の二人の作品は、テーマにしているものが予感させるようなわいせつ性はあまり感じさせないものだった。もちろん何をわいせつ物であったりエロと見なすのかという話にもなるけれど。「理想の性器」っていうと、世の中でタブー視されているものをイメージする人は少なからずいるんじゃないかと予想していたんだけれど、それは完全に裏切っているんじゃない? 

🍋:文脈とか前提の話にも繋がるかもしれないけど、そういうわいせつやエロを前提としている人たち、あるいは世の中でわいせつと見なされているものに対するなんらかの抵抗を見せて欲しいと期待する人にとっては、肩透かしを食うものかもしれない。エロく見るなっていう抵抗でもないし、エロいものを守れっていう保護でもないし。

🍑:エロを否定しているわけではないけれど、私たちは別にエロを守るための運動をしているわけでもないからね。むしろ画一的なエロに対して「もっとこういうのもあるけど?」みたいな方向かもしれない。それ以外のオルタナティブとしての性器を、数あるチョイスの一つでもいいから考えられたら良いと思った。

🍋:エロの種類ももっといっぱいあっていいと思う。

🍑:エロの種類って良い言葉だね(笑)。

🍋:百瀬さんも言っていたけど、挿入して射精して終わりっていうこと以外を考えたときに、挿入しないエロもあるし、射精しないエロもある。それを質的に手触りのあるものとしてどんどん作っていきたい。

🍑:「何を」そもそもエロとして見るのかとか、そういうファンタジーの存在って、コミュニケーションを次の段階に進める上において少なくとも私にとっては大切なことなんだよね。

🍋:そう思う。エロの種類を増やすっていうのは、ある特定の人とのエロの種類を増やすっていうよりも、もっと色んな人とエロの種類を増やせた方がいいーーというのは、なんとなく私たち二人とも思っている。こいつただやりたいだけじゃないか、って誤解されたらイヤだけど、色んな人とエロの関係を築いてけたらいいと思うんだよね。

🍑:これはもうエロという概念を超えたものかもしれないし、エロっていうと、常にそこに欲望する・されるという関係性があるような気がする。だから作中ではエロって言葉は無意識的に避けていたのかもね。

🍋:そうだね。作中ではエロっていう言葉はニュアンス的にずれるな、っていうのはあった。

🍑:さっきからずっとエロばっか言ってるな(笑)。

🌵:粘土の触り方とか音とかは欲望を掻き立てられるものだったけれどね。それに関して面白いなって思ったのは、作中で、内臓とかは「エロティック」で、それは身体の傷つきやすい部分を晒しているからで、一段階上のコミュニケーションであるから、みたいなことを言っていたとこだった。いわゆる普段のコミュニケーションとは違う、脆弱性を前提とした接触としてのコミュニケーションというか。

🍑:この作品を構想している時に、私個人が考えていたことはアセクシュアルの人たちのことだったんだよね。セックスとは人生の喜びそのものである、というのとは違う性器のあり方を考えたかったし、アセクシュアルの人たちを取り残さない性器の取り扱い方みたいなことを考えていた。ただ、今こういうことを言いながら、粘土をいじるとすぐ無意識にファルス的なものを作ってしまったりとか、そういう自分の中でも矛盾があるんだけど。

《Love Condition》(2020)

🍋:言っていることと、やっていることが違う(笑)。でも、その矛盾を隠さない方法があると良いよね。

🍑:そういう矛盾は面白いなと思っていて、フェミニストとしての世界の把握の仕方をしていたとしても、当たり前だけどその人にとっての欲望はそれぞれのバリエーションがあるということだよね。私自身はSM文学好きだし、わりとマゾヒスティックな欲望もあったりして、でもそれと自分がフェミニストであることは両立する。プレイの中でメスブタと罵られながらも女性としての尊厳は両立しうる。むしろその両方をちゃんと楽しく生きることが重要だと思ってる。

🌵:「フェミニスト」っていうと昔から色んなイメージが付きまとって、フェミニストならこういうことをしなきゃいけない、みたいなことはずっとあった。でも、実際のところ恋愛もファンタジーみたいなものじゃん。というか、あらゆる関係性はある種のファンタジーに依存していると思うんだけれど。

🍑:重要なのは、それをファンタジーであるとわかってやっているのか、そうじゃないかということだと思っていて。アセクシュアルの人にとっての抑圧っていうのは、恋愛は当然するものとして自然化されているということだと思うんだよね。でも恋愛って、数あるファンタジーの中から、例えば「今は恋空的な雰囲気」みたいに選んでいるだけであって、デフォルトでみんなが恋愛を信じているわけではないと思うんだ。そういうのをわかってて利用するのはいいと思うんだよね。私だってすごい楽しんでるし。ただ、私が男女3人で暮らしているって言うと、まず恋愛に置ける三角関係を心配される。「嫉妬とか大丈夫?」って聞かれたり、語られたりする。男女が恋愛という要素抜きで共同生活をするってそんなに難しいことだと思われているのかと思うと、ちょっと寂しくなったりはする。

🍋:ファンタジーって、一緒に体験できるかどうか? ってことなんだと思うな。でも、それを確かめるのって難しいとも思う。私は『テラスハウス』が好きで、放送後にSNSでシェアされる感想とかも読んでたんだよね。みんながファンタジーとして楽しんでいると思ったんだけど。出演者の一人に対して心ない書き込みが殺到して、自殺に追い込んでしまうという、とても悲しい結末になってしまった。これがファンタジーなのかそうじゃないのか、共有しにくいものだなって感じたよ。

🌵:ファンタジーを生きている自分とファンタジーじゃないときの自分って切り離せるのかな? ファンタジーを生きてないときの自分がいるかも疑わしいし、かと言って自分の生きている生活がファンタジーかって言われるとそれもどうだろうって思ったりする。

🍋:はっきりとした境界はないよね。分かりやすく、ファンタジーですって合意してから進めればいいのかな?

🍑:例えば、ある人がパートナーに対して「お互いに他の人とも自由な性交渉を持てるようにしよう」みたいな合意形成をすることは、昔より出来るようになったと思うし、可能なものだと捉え始められているんじゃないかな。個人がある合意の元に関係性を築くことに対して、世間がどう見ようと、当人たちが納得していればいいよね、という価値観が以前よりは浸透してきているような気がする。

🍋:合意って大事だよね。いい意味でも悪い意味でも。私は後になって、あの時合意しなければよかった(汗)って思ったりしそうだけど。

🍑:私にとってファンタジーのイメージって、揮発性というか、コミュニケーションにおける「ファ〜〜(ンタジー)」としたもの、というか。

🍋:ファ〜〜(笑)。

🍑:ドキドキとかワクワク的な恋愛感情とかファンタジーって、その場で火がついてぼーっと燃えるものだけれど、それ自体に力があるというよりは、コミュニケーションを推進していくある種のガソリンみたいなものなんじゃないかなって思う。

🍋:結婚は?

🍑:結婚という制度自体を、恋愛の先にあるっていう議論をするから話がややこしくなる気がしてるよ。だって私、普通に麻衣ちゃんと結婚したら面白そうだなって思うし。ある種の共同体を作って運営していくときに、なぜ恋愛が重要なものとして捉えられるのか不思議に思う。

🍋:百瀬さんとの結婚生活は面白そう! でも、自分もかつては、恋愛が前提になってたほうが何かが強力そうって思ってたよ。

🌵:近代のロマンティックラブというか、結婚がロマンティシズムと結び付くとそうなるということかな? 人生そのものが、恋愛を通して崇高さとか個人の成長に繋がるというか。

🍋:そうかも。私は恋愛を通した崇高さっていうファンタジー、好きなんだ…。

🍑:でも、契約書ってもともと、甲と乙が契約中に問題が生じたらふたりで考え直すことが出来る、みたいなことは書いてあったりするじゃん。合意が崩れるようなことになったときに、それを話し合える関係性を作れるかどうかが重要なのかなと思う。人は変わっていくものだし、その変化を受け入れていくことが出来るのかは重要だよ。結婚制度に対して他に言いたいことはいっぱいあるけど、フィットしないってなったらその契約を継続するかどうかを確認できる制度ではある。そこが前提として重要だと思う。

🍋:ところで、LINEマンガの恋愛マンガでその感想欄を見てたまに気が滅入ることがあるんだけれど…。 

🍑:見なきゃいいじゃん(笑)。

🍋:結婚生活が長くなると、なんだかんだお互いの絆とか関係性を維持するのに必要なのは肉体関係だから、それさえもなくなると不憫だみたいなことが書かれてあって。話し合いじゃどうにもならない関係性でも、セックスをすれば繋がれるとか書かれていて、「いいね」が大量についているのを見て悲しい気分になるんだ…。

🍑:そこで想像される「じゃあ今日はセックスして仲直りしよう!」っていう状況で、やっぱり挿入とかの形が象徴してしまう何らかの関係性ってあるような気がする。そういうカードの切り方に見えるというか、結局何か挿れて/挿れられてってなっちゃう。そういう形ではないものを私たちは提案したかった。

🌵:そういう性器をカードとして捉えるのは言い得て妙だなと思ったけれど、結局のところ性器が手段になってしまうわけでしょ。

🍑:カードっていうことでいうと、すぐ誰とでもやっちゃう子が叩かれるのは、そのカードの価値を貶めるな、大事にとっておきなさいってことだよね。よけいなお世話だけど(笑)。

🌵:だからそこがタブー性と結び付くんだろうけど、性器をカードとして見るってまさに客体化して見ているし、自分の身体だけれど、何かの交渉に使う部位というか。二人が最終的に作った性器は道が通っていたり、ボールを動かしあったり、カードにはなれないようなものだよね?

🍑:映像の中で言っていたけれど、自分でコントロールできないというか、むしろ性器側が私たちを選ぶということかもしれない。私たちが性器を支配しているっていう意識から解放されることで、そういうカードが切れなくなるというか。

🌵:風に揺られるとか、その痕跡がお花畑になるとかすごい良かった。村田沙耶香さんの『消滅世界』でも描かれていたようにテクノロジーによって内臓が一つ変化することによって、人間の持つ欲望とか快楽の生態そのものが変化してしまうかもしれない。

🍋:人間同士の生身のセックスに嫌悪感を抱いていて、二次元キャラクターで自慰行為をしているけれど、本人にとってはそれがセックスだと感じられるって話だよね。

🍑:接触が気持ち悪いって感じは、コロナによってリアルなものになってきたから、今読み直すとまた違うかもね。(タリオンギャラリーのギャラリストである)上田さんにはあまり時事ネタっぽくしないで欲しいと言われたけれど、やっぱりそういう状況下に作られたものだから、作品内にコロナの話題も出てしまったし。

🌵:実際にどうかは私もわからないけれど、接触を伴う新たな関係性は作りにくいよね。

🍑:ロックダウン下のヨーロッパにおいて、ゲイカップルが感じている抑圧の話を聞いた。日用品の買い出しに行くときも、見た目でいわゆる「家族」とみなされないと注意されたりする世界なわけだから。

🍋:Go To トラベルでも、老人や若者の団体旅行は控えて欲しいと政府が公言していたけど、核家族的な家族像を想定しているように聞こえた。

🍑:特別定額給付金の10万円が家父長制的に夫のもとに一括で振り込まれて、DVを受けている妻にお金が行かないとか、そういうものもすごいあぶり出された気がする。

🌵:それにも関わるけど、上田さんがvol.2に掲載したインタビュー記事「おしゃべりは終わらない(百瀬文 × 多田佳那子 × 遠藤麻衣)」を読んでくれたことが二人の展覧会に繋がったと聞いているけど、あのインタビューはもう2年前という衝撃なんだ。当時は#MeTooムーブメントが日本でも話題になっていたりして、公にハラスメントの問題が議論されるようになり始めたときだった。去年はあいちトリエンナーレもあったし、アートにおいてもやっと積極的にそういう話をされるようになったけど、二人はそういう変化をどう見ている? 社会的なことも含め変化は感じているのかな?

🍋:twitterでいつの間にか「ツイフェミ」っていう言葉が定着したことが興味深いなって思う。イズムやイストがなくなって「フェミ」だけがある? うまく言えないけど…。

🍑:twitterではトランスフォビア発言をする女性たちも目に入るようになった。生理的に耐えられないのだという「傷つき」の問題を”当事者性”を持って書いていて、そういう感情自体が論拠になる、という言説がすごく前面化した気がする。

🍋:あとBLMもあって、日本でも人種主義に対して行動が起こされたり議論されるようになったけど、美佳ちゃんと(根来)美和ちゃんがインターセクショナリティについて翻訳をしていたように (*5)、フェミニズムの問題が人種の問題と交差していない気がする。

*5: 抄訳: キンバリー・クレンショー『人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評』(1989)

🍑:それは単純に教育の問題なんじゃないかな。女性やマイノリティの運動と公民権運動がどういう重なりを見せていたのかとか、そういうものを教わる機会がない。多くの日本人は複数のアイデンティティが一つの身体の中で複雑に絡み合っているということを想像するのが苦手なのかもしれないね。

🍋:アイデンティティって、外側からこういう同一性を持ちなさいよって言われていることも含めてのことだと思うから、個人的にはあまり信じすぎたくない。

🍑:アイデンティティ不在の状態に耐えられず、「この国に生まれてよかった」みたいなことを素朴に思ってしまうとかね。

🌵:そういうアイデンティティの単一的な視点がそのアイデンティティを「傷つけないために」、現実問題として暴力や抑圧対象となっている人たちを排除しても良いというような言説として強化されている感じだよね。

🍑:あと、今ちょうど東京現代美術館で展覧会『もつれるものたち』をやっているけど、ミックスライスが出てるじゃん。移民問題とかを扱っている韓国のアーティストコレクティブだけど、ちょうど展覧会会期中にメンバーのひとりのセクハラが明るみになり、韓国の美術界でかなり激しい糾弾をされたんだよね。そしてそれを受けて、彼は今後いっさいの芸術活動から身を引き、ミックスライスを辞めると自ら宣言した。(*6) 大前提として、そういうマイノリティの声に耳を傾けるようなプロジェクトを行ってきたアーティストが、立場を利用してセクハラするなんてあってはならないことだと思う。けれど、そういうとき、彼個人への社会的制裁はどういうふうにあれば良いのか、と考えたりもするーーコレクティブからの除外と、アーティストとしての活動の終止符を打つ、ということでいいのかな、って。

*6: 美術館ウェブサイトではステートメントが発表されており、「作品はミックスライス がコレクティブとして協働し制作したものであり、他のメンバーによる芸術的貢献は認識すべ き点として重要である」という考えからそのまま作品の出展をしたことが述べられている(2020年9月に更新されたステートメントより抜粋)。

🌵:セクハラ問題って多くの場合は個人の問題として社会的な議論を終わらせてしまっている印象だけど、でもさ、そういうのって一人だけの問題じゃないじゃん。そういうのを許してしまった環境の問題でもあるし。自己責任で終わらせがちだけど、そういうことだけじゃないと思う。ちょっと前にエプスタインのドキュメンタリーを観たんだけれど、まあ陰謀論もあるけど彼は自殺しちゃったし、彼の周りの女の子たちも貧困であったり家庭の問題があったから彼の性犯罪に加担しちゃっていたんだよね。被害者もだけど、それに巻き込まれた人たちも社会の目を気にしながら生きなければいけない。

🍑:私は赦しの問題について考えているんだけれど--私は東京の府中市出身で、通っていた中学校が府中刑務所のすぐ目の前にあったんだ。府中刑務所って、殺人とか、結構重い刑の人が入っているのね。刑務所には一年に一回お祭りがあって、私は塀の中の受刑者たちが焼いたパンを、友達と一緒に食べたりしていたの。その経験がすごく鮮烈に自分の中にある。刑務所の中にこういう罪を犯した人たちがいる、ってビビりつつ、その壁をなぞりながら通学路を歩いていたし、自分がいつあっち側に行ってもおかしくないんだと思っていた。それが当たり前に生活の中にあったから。

🍋:うん、うん。

🍑:ちょっと前に読んだ吉田豪さんの本(*7)で、香山リカさんにインタビューをしている回で話されていることが興味深かったんだけど、宮崎事件とか、酒鬼薔薇事件みたいないわゆる凶悪事件が起きた直後って「あいつは俺の代わりに捕まったのかもしれない」とメンタルをやられてしまう人々が以前は結構いたということなんだよね。つまり自分の中にも「内なる悪魔」がいるのかもしれない、という恐怖、自罰意識に似た感覚があったと。でもいつからか時が経つうちに、人々は「こんな奴は許せない」「身の回りにいたら本当に怖いです」と、その悪魔を綺麗に外部化するようになっていった。最近のインターネットを見ていると、まさにそういう状況だなあというか。塀の中で受刑者たちが焼いたパンを食べることすら生理的に受け入れられない人たちが結構いるのかな、と思ったりすることがある。

*7: 吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書院、2012)

🍋:去年、エミール・ノルデがナチスに傾倒していたってニュースになったよね。ナチスに迫害された作家として認識されていたから、センセーショナルだった。首相のメルケルも、オフィスからノルデの絵を撤去させたりとか。私は、制作物と制作した人の過去の行いとを結びつけることの是非が気になっているんだけど。問題はそこじゃないかもしれない。一つの罪によってその人全体を許せなくなってしまうことなのかも。

🍑:時間の経過の問題なのかな? カラヴァッジオとかは許されてるじゃん。

🍋:ピカソとかもね。

🍑:カール・アンドレは…。

🌵:全然時間の経過じゃないし、「誰が」とがめられないのかという問題もあるよね。ドイツの場合はナチス系のものは禁止されていることとも関係していると思うけど、そういうのを思想の分野でもよく考えたりする。例えばハイデガーもナチスに加担していたわけで、ウィーンにいると人によってはタブー感があるし安直に「反ユダヤ主義」とレッテルを張る人もいる。彼についてはその過去を含めて思想としてかなり議論されてきているし、一方で虐殺に関わってないし無関係だとか言っちゃう人もいる。物書きの人って人間としてどうかしていると言われている人が多いし、行動として出てきたものに目をつぶってしまっている部分が実際のところはあるわけでしょ。その行為を良しとしてしまう構造的な排除の枠組みは再生産すべきでないと思うんだけれど、その場合の赦しとは… 。

🍋:うん。

🌵:でもやっぱり問題なのは組織的に制裁や罰を受けないような人たちがいて、そのために泣き寝入りをしたり黙認を強いられている人たちがいることだと思う。ただ一方で、変化していく可能性はこういう問題で語れることはあんまりないかも。

🍑:自分が犯してしまった過ちを償っていくためのコミュニケーションがどうすれば可能になるのかと常々思うけど、被害者からしてみれば二度と会いたくないっていうのは当然だし。事件としての炎上は一瞬のうちに消費されるけど、回復の物語や、更生の物語は時間がかかるから人々の関心の対象になりにくい。制裁の先の、小さなストーリーに耳を澄まし、そこから後に続く人々が「学ぶ」ことがどうやって可能になるのか。

🍋:そういう気の長い向き合い方をどうやってできるんだろう。除外したり、断罪したり、一瞬で終わらせようとするやり方ばかりが目に付く状況になっているように思う。

🍑:罪人がこねて焼いたパンを口の中に入れて飲み込むっていうことは、やっぱり私にとって象徴的なことだったんだよね。もしかしたら言葉ではない贖罪のプロセスの方がもっとスッと入ってきたりするのかな、って。

🍋:受刑者の方がパンを焼くのは、被害を受けた方本人に向けてだけでなくて、その方も含まれる社会全般に向けて行う償いということだよね。

🌵:でもそういったことはますます見えてこないし、そもそもパンを食べる機会もない。

🍑:そうだし、パンを食べられない私たちの問題でもある。

🍋:ダナ・ハラウェイの本(*8)にも刑務所の話があって、犬を訓練するためのプログラムを囚人たちにさせるんだけど、彼らがしっかり躾けて試験に合格できれば、犬たちは一般的社会にいく。ペットになったり、セラピー犬になったり。犬を鍛えることが自分たちの更生プロセスと一緒になっている。でも、試験に合格できなかった犬たちは殺されてしまうんだって。

*8: ダナ・ハラウェイ著、高橋さきの訳『犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクス』(青土社、2013)

🍑:えっ、普通の犬としての生は選べないの?

🍋:もともと、野良犬だったりして、事情があって殺処分を予定されていて。その犬たちを囚人たちが更生させる、ということみたい。

🌵:すごい話だな…。 

🍑:囚人たちは犬たちに感情移入してしまうかもしれない。社会の役に立たなければ殺される…。なんともいえない気持ちになった。最初は良い話なのかと思って聞いてたけど。

🌵:でも今の話を聞いていて、非対称性を超えてお互いが内包された関係性とか、自身がコントロールできないところに変容だったりコミュニケーションを紡いでいくみたいなところは「新水晶宮」とも決して離れた実践ではないようにも思ったりしたよ…。ここまで3時間ほど経っているので(笑)、このあたりで今回はおひらきということで、二人ともありがとうございました!

(2020年7月18日zoomで収録後、加筆修正)


百瀬文
アーティスト。1988年生まれ。近年の主な個展に「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG、2019年)、「サンプルボイス」(横浜美術館アートギャラリー1、2014年)、主なグループ展に「彼女たちは歌う」(東京藝術大学 美術館陳列館、2020年)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)、「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋——日本と韓国の作家たち」(国立新美術館、韓国国立現代美術館、2015-16年)など。
ayamomose.com

遠藤麻衣
俳優、アーティスト。1984年生まれ。近年の主な展覧会に「彼女たちは歌う」(東京藝術大学 美術館陳列館、2020)、「When It Waxes and Wanes」(VBKÖ, ウィーン、2020)、「アイ・ア ム・ノット・フェミニスト!」(ゲーテ・インスティトゥート東京、2017)、「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」(東京都現 代美術館、2016)など。近年の主な出演に、パフォーマーとして小林勇輝「Stilllive」(ゲーテ・インスティトゥート東京、2019)、俳優として指輪ホテル「バタイユのバスローブ」(naebono art studio, 札幌、BUoY, 東京、2019)など。
maiendo.net