Multiple Spirits

2020-03-07

シモ・ケロクンプ対談:「リーディングプラクティスとしての振付」と日本のマンガ

フィンランドのラップランド生まれのシモ・ケロクンプ(Simo Kellokumpu)は、ヘルシンキを拠点とするアーティスト、コレオグラファー、リサーチャーで、2019年にシアター・アカデミー・ヘルシンキのパーフォーミングアーツ・センターより芸術博士号を取得。彼の実践は、多様な規模と文脈のなかで身体と物質間の振付的関係を探求し、作品は現代のスペキュレイティブ・フィクション、惑星間文化、そしてクィア(する)空間の複雑な絡み合いのなかで作用する。 2010年よりフランスのアーティスト、研究者であるヴァンサン・ルーマニャックと協働制作をしており、研究集団Qi͈̬̿͝l̴̛̬̝̒o̵̰̍̔ǘ̴̼ḓ̷̟̓̅s̷̻̦̆Q̸̠̿͒u̷͓͚͊̽A̸̛̘͝r̷̖͈̀͝ṭ̶̏͘z̶̩̩͛の創立メンバーとしてオウティ・コンディットとルーマニャックと共同研究を行っている。

ケロクンプは現在、ルーマニャックと谷沢直との協働制作である三部作「アストロトリロジー(Astrotrilogy)」(《pompom》東京、2017・2018年/《ri:vr》パリ、2019年/《åstra》サンフランシスコ、2020年)に取り組んでいる。 マルスピとの会話は、2019年12月にパリで第二部《ri:vr》を発表し、同時にマルスピがウィーンで開催された展覧会「When It Waxes and Wanes」に誘ったことから始まった。以下のインタビューはメールによって行われ、日本のマンガとその可能性に関連して、ケロクンプの実践と作品について話し合った。

《ポンポン》インスタレーションビュー 「When It Waxes and Wanes」VBKÖ(ウィーン)
撮影:Miae Son

丸山美佳(マルスピ/以下、Mika):それでは、2017年に東京で制作した作品《pompom(以下、ポンポン)》を含む「リーディングプラクティスとしての振付(choreography as reading practice)」を扱った博士のリサーチプロジェクトの理論的背景と、振付という実践について聞くことから始めたいと思います。特にこの作品では、東京の空間とその一時性に対する経験と解釈を通して、自身の身体を用いた振付的な動きと身体の緊張関係とに取り組んでおり、パフォーマンス・インスタレーションとして映像、パフォーマンス、そしてマンガを制作しています。私は東京で発表した際のパフォーマンスを見ることが出来ませんでしたが、マルスピ編集チームの遠藤麻衣は、あなたの存在がさまざまな階層で同時に複数化するのを目撃したようだった、と作品の経験を述べています。彼女にとってこの作品は、空間への変容的反応の仲介としての振付/身体を示すものであったようです。また、インスタレーション内におけるマンガの使用法は、異なる視点から現代の振付という実践に光を当てているようにも思えます。なぜならマンガにおける身体表現は、芸術的な表現や動きとは違う仕方で、あなたの身体の内部で起こる身体的変容を扱っているように見えるためです。作品の背後にある基本的な考え方と、「リーディングプラクティスとしての振付」の観点から日本のマンガをどのように使用するようになったのかを教えてください。

シモ・ケロクンプ(以下、Simo):ポンポンは、私とフランス人監督でありアーティスト、研究者のヴァンサン・ルーマニャックとマンガ家の谷沢直さんの3人の協働制作の作品で、私の振付としてのリーディングプラクティス、ヴァンサンによるビジュアル演出、そして谷沢さんのマンガ家の実践をまとめたものです。このプロジェクトでは、私の西洋的でサイト・スペシフィックで、かつコンテクストレスポンシブ(context responsive)な振付実践を現代のSFや日本のマンガと混ぜ合わせることによって、東京の経験的な運動をフィルタリングしています。プロジェクトを計画するにあたっての出発点は、次のような問いにあります。「ゲスト」として、動きのレンズを通してどのように現代の東京を具現化するのか? 東京とその固有な動きを持つ空間、モビリティシステム、および変容する物質性は、コレオグラファーの身体をどのように変化させるのか? これらの運動はどのように東京を生み出すのか? 日本のマンガとともに、これら膨大な運動に宿り、翻訳することで、どのようなコレオグラフィック・アートが出現するのか? 親密な西洋的実践が日本のマンガとの対話を通して東京の大都市と出会うとき、どんな種類の批判的かつ物質的な出会いや類似した関心、翻訳、転置、パラドックス、緊張状態が生まれてくるのか? 言い換えれば、このコレオグラフィック・インスタレーション作品の規模とは、私の博士のアーティスティック・リサーチ・プロジェクトで実施された他の作品を補完するもので、過剰運動的な超巨大都市である東京という枠組み内で、運動と場所、そして物質環境の関係を振付として具現化することの探求でした。2017年秋に東京アーツアンドスペース(TOKAS)のレジデンシーでヴァンサンと一緒に三ヶ月間過ごしてこの作品の制作をしました。
      私は、具現や肉体化という意味でのエンボディメント、運動、そして身体性に関する問いの重要な批評的背景としての現代のSFに興味があります。 日本のマンガは西洋のSFに大きな影響を与えていますし、日本のマンガにおける運動の力学の視覚化とマンガの見え方に関心を持っています。谷沢さんと一緒に仕事をしながら、マンガを観るときに目の動きに専念することが重要だということも学びました。またマンガは、あらゆる種類の想像上のエンボディメントが行われる日本文化の一つの分野です。これらの理由は私の研究の問い対して理にかなうものであり、このプロジェクトをこの方向に進むていくことは正しい芸術的選択のように感じました。

Mika:ポンポンでは、谷沢さんとどのように仕事をしたのかについても教えてください。この協働制作は、単に彼女にマンガ制作を依頼しただけではないと思っています。お互いが異なる分野で活動しており、また異なる背景や視点を持っているため、お互いの作品をより深く理解できるように彼女との深いコミュニケーションが必要だったのではないでしょうか。そして、あなたにとっては、そのコミニケーションはマンガとそのなかで展開されるエンボディメントや、動き、身体性についてのより深い理解をもたらしたように見受けられます。 日本のSFも歴史的には西洋のSFの影響を受けて発展してきましたが、制作中に出会った西洋的実践と日本文化の現代的な混合物を、自身の振付実践や現代のSF全般でどのように位置づけていますか?

《ポンポン》東京、2017年  撮影:ヴァンサン・ルーマニャック

Simo:ヴァンサンとはまず最初に、「ポンポン」と呼ばれるクィアなマンガキャラクターを作り出し、東京の五ヶ所でリーディングプラクティスとしての振付を試みたビデオを五本撮影しました。ビデオのなかでは、日常的に知覚される運動から惑星や銀河の運動まで、選んだ場所を構成する運動に対して感受性を用いて振付をしていますが、作品全体のアイデアとして、私は一つの場所に留まり動き回りません。重要なのは、ビデオではマンガのキャラクターになろうとしているわけではないということです。青いウィッグの着用を決めたのは、日本のマンガ文化との出会いの場での交渉を指し示す視覚的な要素であり小道具だからです。社会・歴史的または言語的な経験と理解がない場合、短期間で文化的環境を表現したり具現化することは不可能だということは言うまでもありません。この「不可能な任務」は、このプロジェクトの動機付けの一つであり、文化的な地殻変動やさまざまな芸術実践について学ぶための触媒としても機能しました。
      インスタレーションでは、ビデオとマンガを互いに平行に設置することを基本としており、鑑賞者はその二つのメディア間で対話を形成することで作品を体験できるようになっています。私のエンボディメント、つまり具現化としてのライブパフォーマンスはこれを補完するもので、ギャラリースペースの中でその空間との、そしてそれを介して開かれる動きのなかの実験です。マンガの各シーンで、ポンポンはある特定の方法で場所に接続します。自身のアクションによって、またはその場所における活発な仲介人(agent)や存在(entity)に出会うことによってです。この接続によりその場所は星雲へと変換され、手元の動きが宇宙のスケールへと拡張されることによって、各シーンはミクロな光景と銀河系の背景が結合します。ポンポンが宇宙旅行から戻り地球に衝突すると一つの体液が漏れ出し、特定の効果でマンガは終わります。複数の場所に同時にいることができるという観点で言えば、テレポーテーションやアンチ/スーパーヒーローイズム、シェイプシフティング(いろいろな姿に変身すること)は、このプロセスにおけるの語彙の一部でした。この作品の制作中は、インデペンデントなクィアのマンガ文化についてもっと知りたいと思っていましたし、谷沢さんと有意義な議論をするのと並行して、日本のSFの歴史を研究しました。

マンガ《ポンポン》(2017年)より

       谷沢さんとは共通の基盤を簡単に見つけることができましたし、一緒に仕事をするはとても楽しかったです。 最初に谷沢さんにビデオを見せて、私が運動や動きの概念にどのように興味を持ち、具現化された実践という観点から「読むこと」の実験をいかにしているかを説明しました。このような「レスポンシブな実践(responsive practice)」の文脈で、どのようにマンガを使用することが理にかなっているのかを検討し、最終的に谷沢さんがマンガで使うための詳細なストーリーを私たちが書くということになりました。マンガのストーリーは、ビデオを撮影した五ヶ所での実験に基づいています。 制作期間中は定期的に会ってストーリーを一緒に進め、毎回のミーティングに谷沢さんはマンガのスケッチを持ってきてくれたので、それをもとに議論をしました。 私の役割は、枠組み、基本的なドラマツルギー、動き、キャラクターの表現を詳細に設定するという意味でマンガの振付家として働くことであり、谷沢さんはそれらの芸術的な演出と対話をしながら作業をしてくれました。

Mika:東京と「クィア(する)空間」という概念に関連して、クィアのキャラクターであるポンポンはヴァンサンとどのように作成したのでしょうか? いまでもマンガを読み、日本語文化圏の出身者として、私はマンガとの関連でこの概念に取り組むのが難しいと感じることがあります。なので、あなたがこれらの文脈と(もしこのジャンルが存在するとしたならば)インデペンデントなクィアのマンガという形式をどのように読むかについてもとても興味があります。また、マンガのポンポンを初めて読んだとき、キャラクターの身体が多様な動きや変容、情動をともなって、さまざまな空間性と時間性の間を宇宙旅行するといったテレポーテーションの側面にすぐに気付きました。しかし、各々の空間で起こる繰り返しの(しかし、異なる方法での)物語(あなたの言葉で言うとしたら、アンチ/スーパーヒーローと呼ばれるもの)は、別の「不可能な任務」を見せていたようにも思います。それは否定的な意味ではなく、フェミニズム/クィアの言説と実践がこれまで行ってきたことに近いものなのではと思っています。なぜなら、読んだり書いたりすること(そしてあなたの実践においては振付をすること)には、常に特定の不可能性が伴うからです。これらの側面について、あなたの実践に則して説明することはできますか? 

Simo:私にとって、マンガのなかで具象化されたこれらの形態は、私が「規範的な主体」と呼んでいるようなものの特定の輪郭を遂行し、不安定にします。私たちが取り組んだこの種の具象化されたものとは、例えば私の視点からすると、存在の状態としての転移と逸脱のプロセスを遂行する一方で、未知なるものと馴染みのものとの関係がこれらの環境でどのように展開するかという問いをも物質化します。東京での初めて滞在ということもあって、もちろん最初は多くの明白な文化的な動きが問われていましたが、ゲストとしての私の役割はそれをすべて受け入れることでした。これは「観光客」としての自分の立場を受け入れるということではなく、文化的および社会的な間の空間で、自分の場所に働きかけること、そしてどのように行われるか、ということを意味しています。実際のところ、これが私がいつも実践している方法です。ここでは文化的な文脈はこの過程を増幅し、私が同時に学んでいたそういった特定の文化的背景を認識しながら、これらの親密な問いに応答する方法がマンガでした。私にとって、マンガはこれらの逸脱を描写しており、親密なものと規範的なものの間のパラメーターを変更する試みとしても機能します。SFとファンタジーは広く行き渡ってる状況に対するオルナタティブを描写する分野であり、だからこそ私もそれらに惹きつけられています。
      ポンポンのキャラクターーーまたはシルエットと言ってもよいですがーーは、日本に来る前にレジデンシーでのプロジェクト準備をしていたときに、さまざまな直感が交差することで生まれたもので、TOKASで作業を始めた最初の日々で固まりました。このプロジェクトの最初の動機は、東京の超流動性と物理的に接触することでした。ただ、直接的な衝撃を打ち込むのではなく、面と向かった生の文化から分離したフィクションの「てこの作用」を通してやりたいという望みがありました。つまり、人物描写(charactarization)を通して、あるいは人物描写することによる空間化/間隔の作用を通してです。したがって、「キャラクター」を作成することを考えました。最初は、宇宙飛行士の姿からその可能性について考えていましたが、歴史的かつ文化的にあまりにも意味合いが強すぎるため、この考えはすぐに放棄しました。レジデンシー前に東京の都市インフラに関するのリサーチと並行して、メガロポリスの運動という表象の多様な様式や制度を収集するなかで、日本画や映画、マンガにおける都市の表象にも興味を持ち始め、この時点でマンガ文化を扱ったり引用したり、アプローチするという考え方が前面に出てきました。それから、キャラクターデザインを流用するのではなく、柔らかく遭遇するという観点から考える必要がありました。また、クラウド的なものやハイブリット性、両性具有性、または浮遊や動いていることに取り組みたいと思っていました。最終的に、試しに秋葉原にウィッグを買いに行ってみたところ、そこでポンポンが姿を現したわけです。西洋的でノームコアな現代の服装に青いウィッグを追加するだけで、なにものかになる状況、それはほぼマンガでした…。このシンプルな行為は十分なものであり、ウィッグが要点に触れる機能をしてくれました。
      東京と日本文化との慎重で、柔らかく、願わくば目立たずに、押し付けがましくはない遭遇を実行するという同様の考えのもと、ヴァンサンはビデオを撮影する際に、焦点を少し外して、わずかだけれど環境を間接的なものにしてくれるレンズを使うことを提案してくれました。これは同時に、植民地主義的な記録のあり方に絶えず存在する危険性だけでなく、不確実性と脆弱性ーーおそらく出会いの「約束された失敗」ーーに対する認識に取り組むことも意図されていました。また、夢のような環境を誘発することで、一時的なものの複数性の詩学と、パフォーマンスの「いまここ性」の回折を可能にしたかもしれません。

Mika:ウィーンでパフォーマンスを見た後ですが、ビデオのポンポンのように実際のパフォーマンス/振付でも顔を見せないことは注目に値すると思いました。目がウィッグで覆われて双方の視線が適切に機能しないため、観客はパフォーマンスを見ているけれど、あなたの存在は見ないか、多少なりともそれを無視しようとしていました。観客の一人は、それをフィクションと現実の間で発生している存在の摩擦として表現していました。同時に、ウィッグを脱いで群衆とスムーズに混ざり合って「現実」に戻っていく様子を見るのも非常に興味深かったです。しかし、マンガの中ではポンポンの顔も見えるし、小さな生き物とのコミュニケーションが見られますよね。私が知っている限りでは、あなたはプロのマンガ家と協力して振付実践に関わるマンガを実際に制作した最初の人なので、谷沢さんとの協働制作についてもう少し聞ききたいです。

Simo:パフォーマンスは作品の一部ですが、作品はそれなしでも見せることができます。 日本では、この作品は、ビデオ、マンガ、ライブパフォーマンスを展示し、物質的に関係させあうことよって、マンガの新しい見方を可能にしているというフィードバックを受け取りました。このような感想は、プロジェクト全体にとって非常に有意義だと感じました。私にとって、プロジェクトとは継続的な対話とそれらの関係の実験であり、また同時に摩擦になり得るものだからです。 
      マンガの制作中は、私の役割はいわばマンガの振付家だったわけです。谷沢さんはヴァンサンと私が作った脚本にスケッチを描いて応答してくれて、そのスケッチを元に細部の議論しました。特に覚えているのは、私の振付の思考を元にして、その種の動きの経験や知覚をどのように描写することが可能なのかと議論し合ったことです。このような問いは私たちの対話をさらに進めてくれるものでしたし、例えば、マンガ家が動きを捉えるために映画の発展にどのように応答してきているのかという歴史へと導いてくれました。谷沢さんと私たちの協働制作はまだ続いており、現在は「アストロトリロジー」の第二作目を制作中で、すでにいくつかのスケッチを受け取っています。イメージを開封し、どのようにプロジェクトが動いて行くのかを見るのはいつでもとてもワクワクします。

《ri:vr》 パリ、2019年 撮影:ヴァンサン・ルーマニャック

Mika:他のエピソードでも谷沢さんとの協働制作が続いているのはとても興味がありますし、この協働制作が最初の舞台である東京からいかに発展していくのかを楽しみにしています。是非、パリとサンフランシスコのエピソードについても教えてください。また、私が展覧会「When It Waxes and Wanes」でもほのめかしていたこととも繋がるのですが、この会話は、異なる文化の表象を通じて発展してきた少女マンガ、特に1970年代の西洋の美学とホモセクシュアリティーやトランスセクショナリティーを取り入れつつ、SFの文法を頻繁に使っていたものを連想させます。あなたは様々なメディアで表象され続けてきた東京という場所から始めましたが、その他の場所では別の仕方で場所との関係性を持ちますよね。二人のアーティストととの協働作業と振付実践のなかで、パリやサンフランシスコという特定の場所とはどのように取り組んでいるのでしょうか? 

Simo:私は「コンテクストレスポンシブ(context-responsive)」、または「プレイスレスポンシブ(place-responsive)」な出発点に働きかけており、これは「アストロトリロジー」の続くエピソードにおいて理解し検討しようとしていることで、私たちが取り組んでいる場所に”過程が発生する”ということです。パリでの二作目はCité internationale des Artsのレジデンシーで制作され、三作目はサンフランシスコとカリフォルニアへの一ヶ月の旅行中に進行しました。パリでは《ri:vr》と呼ばれる作品が、惑星運動、集中的な衛星結合のデータフロー、アルゴリズムのワイヤー・スピードに条件付けられた細胞の生成(becomings)の絡み合いにのなかに出現しました。言い換えると、《ri:vr》は存在するさまざまな潮流や流動、循環の衝突によって生成された、とりとめない場所として変質した身体を提示しています。つまり、レジデンシー近くの川岸に沿う水生の淡い青緑色の生き物と、電気およびアルゴリズムシステムの組み込まれその周囲を駆けまわっている者たちです。このプロジェクトではまた、髪の代わりに生きている毒ヘビを持つ怪物の神話を不気味な方法で再検討しています。

《åstra》サンフランシスコ、2020年 撮影:ヴァンサン・ルーマニャック

       サンフランシスコでは《åstra》と呼ばれるプロジェクトが、プラネタリーダンスの歴史に飛び込み、それを惑星間ダンスへと変容させています。また、シリコンバレーという場所固有のクィアの歴史とコンピュテーショナル・コンポーネンツ(computational components )も取り入れました。これらすべてのエピソードで、私は一時的に特定の条件を訪れたゲストの立場から取り組んでいるため、その立場を批判的に認識することで、文脈的かつ物質的な環境に宿る方法を常に探しています。この文脈的および物質的状況の調査は、アート作品として手を加えることができるようなトレース、ドキュメント、およびジェスチャを何度も生成します。ヴァンサンとはこれらの場所で一緒に仕事をしてきていますが、谷沢さんとはメールでオープンに対話を続けています。この三月に東京で谷沢さんに会って第二作目のマンガ制作を進める予定で、とても楽しみです。最終的には「アストロトリロジー」プロジェクトのための三冊のマンガが制作されるわけです。 三部作すべてを同時に展示し、プロジェクトを公開して聴衆と共有する可能性も探しているところですが、私たちがプロジェクトを始めた東京は、それを行う意味のある場所だと思っています。

《åstra》サンフランシスコ、2020年 撮影:ヴァンサン・ルーマニャック

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オリジナルテキスト:Simo Kellokumpu in conversation on “choreography as reading practice” and Japanese manga(英語)
翻訳: 丸山美佳