抄訳: ジャスビル・K・プア「Queer Times, Queer Assemblages」(2005)

根来美和と丸山美佳による現代の芸術実践に重要な論文やテキストの勉強・研究・翻訳プロジェクトの第三弾は、前回のキム・ヒョンジン「History Has Failed Us, but No Matter」でも引用されていた、クィア理論家であるジャスビル・K・プアの「Queer Times, Queer Assemblages」(『Social Text』 Vol. 23、84-85頁、2005年)の抄訳です。

🌟ジャスビル・K・プアについて🌟

 米国拠点のクィア理論家で、現在ラトガース大学ウィメンズ・ジェンダースタディーズの教授で大学院教務部長。南アジア系ディアスポラの生産や、テロリズム、監視、生/死政治等の研究で知られる。『Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times』(2007年)において、「ホモナショナリズム(Homonationalism)」という概念を提示することで(西欧的)LGBTQグループや彼らが主張する権利が国家政策やナショナリスト的イデオロギーと結びついていることを指摘した。そこからサラ・ R・ファリスの「フェモナショナリズム(Femonationalism)」(2012年)など、欧米の移民政策におけるフェミニズムとナショナリズムの結びつきを指摘する研究が発展してきている。

 2005年に発表された本論文「Queer Times, Queer Assemblages」は、対テロ戦争における人種差別、ナショナリズム、愛国主義、テロリズムのアッサンブラージュがすでに「クィア」であることを指摘しながら、西欧的セクシュアルマイノリティ言説と結びついたナショナリズムと、国家的な規範を生み出すためにいかにテロリストの肉体が生み出されているのかを明らかにする。また、クィア理論やセクシュアリティ研究における、アイデンティティを中心としたインターセクショナリティのアプローチを批判し、そこからドゥルーズ=ガタリ的な「アッサンブラージュ」への移行を主張する。

🌟論文目次🌟

米国例外主義におけるクィア・ナラティブ
テロリストの肉体性
情動的クィアネス


 確かにクィア的な時間はある。対テロ戦争とは不朽のモダニズムのパラダイム(文明化するテクノロジー、オリエンタリズム、ゼノフォビア、武装化、国境にまつわる不安)とポストモダニズムの爆発(自爆テロ犯、生体認証による監視戦略、新興した肉体性、行き過ぎた反テロリズム)の配列に接続されたアッサンブラージュである。諸身体、欲望、快楽、接触性、リズム、共鳴、質感、死、病的な状態、拷問、苦痛、感覚、罰を強調しながら私たちの死政治的な現在-未来は、クィア理論とセクシュアリティ研究が言及すべきことを再明確化することを急務とみなしている。その言及すべきこととは、帝国のメタ理論と「本当のポリティクス」についてであり、ジョーン・スコットが述べたように、「ポリティクスの本当の務め」として理解されているものである。*1 ナショナリストで愛国的なテロリストの形成と彼らの人種化され倒錯したセククシュアリティとジェンダーの違和感の絡み合った形態を詳しく論じるために、クィア的な時間は思考、分析、創造性、表現のよりクィアなモダリティ(様式)を要求する。対テロ戦争とそれに付随する人種差別、ナショナリズム、愛国心、およびテロリズムのアッサンブラージュについてはどうだろうか、すでに十分にクィアであるだろうか? 多様なテロリストの肉体性におけるクィアネス(queerness)の検討を通して、クィアネスが否定されたり認められたりしないままであっても、あるいはその場合は特に、クィアネスは増殖すると私は主張する。これらのタイプの検討を取り上げるのは、反テロ対策の言説は本質的にジェンダー化、人種化、性的化され、国家的なものにされていると主張するためだけでなく、クィアなテロリストの肉体性に反しながらもそれを通して結束する規範的愛国者の諸身体の生産を明らかにするためだ。以下に続く思弁的で探索的な試みにおいて、私はこの重なり合いの3つの兆候を前景化する。まず、クィアネスの論説を検討するが、そこでは特にイスラム教徒のセクシュアリティを通して、クィアな肉体性の問題有りきの概念化が米国例外主義の議論の為に繰り返されている。次に、自爆テロ犯におけるテロリストの身体を、空間的、一時的、肉体的な収束、内破、再配置を支持するクィアなアッサンブラージュとして再明確化する。それは、性的アイデンティティとしてのクィアネス(あるいは反アイデンティティ)、言い換えれば、インターセクショナルでアイデンティティ主義のパラダイムに抵抗するアッサンブラージュである。アッサンブラージュとしてのクィアネスは [アイデンティティの]発掘作業から遠ざかり、クィアとクィアではない主体間の二項対立を無効化する。そして、独占的に異議を唱えたり、抵抗、代替としてクィアネスを保持する代わりに(重要なことにすべてのクィアネスがそうであり、そうしている)、偶発性と支配的な形成との共犯を強調する。最後に、アッサンブラージュとしてクィアネスに焦点を当てることは、認識論と並行して存在論、つまり表象的経済における情動へ注意を向けさせると主張する。その中で身体は、例えばターバンを巻いたシク教テロリストのように、相互に浸透して渦を巻くとともに、お互いに情動を伝達し合う。情動と存在論を通じて、特にターバンを巻いたシク教徒のテロリストは、クィアアッサンブラージュとして、南アジアのクィアディアスポラの地形を再形成していると主張する。

米国例外主義におけるクィア・ナラティブ

 一つの批評として、「クィア・リベラリズム」はポスト構造主義者の反アイデンティティあるいはトランスアイデンティティ批評として、国家の主体形成のリベラルな要求とクィアネスの抜本的な信念との全く想定外とも言えない不安定な調和を認めている。我々は異なるものの重なり合ういくつかのクィア・リベラルな主体の系譜をまとめることができる。[…] 消費的かつ司法的系統の両者が国家の威信を強く反映している一方で、クィア・リベラリズムが存在している一つの簡明な方法とは、性に関する他者化の実践を媒介した米国ナショナリズムの演出を通してであると私は主張する。性の他者化の実践は、中東におけるセクシュアリティのイスラム恐怖症的構築と比較するとアメリカにおけるクィアネスのアイデンティティを無意識に例外化している。これは人種差別や保守的なレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア、クエスチョニング(LGBTQ)の言説における構成的排除の批評ではない。むしろ私が対立しているのは、インターセクショナルな分析に傾倒しているにも関わらず、(もしかするとだからこそ)クィアの理論化が決まって米国国家の規律的利益を再生産するような知識への認識論的意志を尋問することに失敗しているという問題である。[…]しかし今私たちが直面しているのは、規範的そして非規範的(クィアな)諸身体を通した性に関する例外主義の生産である。つまりクィアネスが、性の近代化のレトリックを通してアメリカの国家的セクシュアリティの性的な例外的体系として差し出されているのだ。そのレトリックはホモフォビックな倒錯者として他者を酷評することと、「寛容」だが性的、人種的にジェンダー化された標準とされる帝国主義者の中心を構築することを同時に可能とする。
 クィア規範としてのホワイトネスの明確化と生産、そして米国における帝国主義者の拡大を無言に容認することによって、クィアネスはナショナリストの外交政策の中に組み込まれている米国例外主義と結託しているのだ。[…] アブグレイブ刑務所における「性的虐待のスキャンダル」に反応した意見の多数の例に、このクィア例外主義の最もはっきりとした生産を見受けることができるだろう。アブグレイブの武勇談が示しているのは、米国例外主義の地政学生産にとってセクシュアリティが非常に重要であることと同時に、この重要な役割にも関わらず、あるいはだからこそ、対テロ戦争にまつわる討論においてセクシュアリティは理論化されず、過小評価され、しばしば避けられる要素であるということだ。[…] まさにこのアラブ/イスラム教徒/イスラム教の(どれがというのは重要だろうか?)文化的差異に対する非教養な概念こそを、ある文化に特有に「効果的」だと彼らが信じる虐待技術のマトリックスを作るために軍事諜報機関は利用しているのである。したがってここで私たちが直面しているものは、他の資料の中から人類学研究「アラブの精神」を使用したペンタゴンの策略と進歩的クィアから発じた言説と並走するものある。[…] 「イスラム教は謙虚さと性のプライバシーに重きを置く。他のアラブ世界とほとんど同じようにイラクはマスキュリ二ティ (男性らしさ)の概念を重要視する。お互いの前でマスターベーションしたり同性あるいはホモセクシュアルな性行為を擬似するよう男性に強要したりすることは、多くのイスラム教徒の目には倒錯そして嗜虐として映るのだ。」*6
 [イスラム教徒のレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・インターセックス・クィア・クエスチョニング(LGBTQ)のための国際団体] Al-Fatihaによる声明に異議を唱えたい。なぜなら彼らは「イスラム教徒のセクシュアリティ」のオリエンタリスト的概念に起因するその他多くの声明を支持するからだ。その概念は性の抑圧を前面に押し出し、規範的マスキュリニティの解釈を擁護した。すなわち、男性的なナショナリズムのようなものを辱め生産しながら、女性化された受け身の立場は帰化されるのである。[…] 私はAl-Fatihaなどのイスラム教徒やアラブの集団が今の時代に行使しなければならないポジショナリティの複雑な動きの連続を強調したい。そこでは文化というレンズを通した「イスラム教徒のセクシュアリティ」の弁明はたやすく人種差別的課題へ接収されている。*7 […] ホモセクシュアリティと「謙虚さ」の観念に相対するイスラム教徒の性の抑制に関する均質的概念を強化することで、対照的にそのような性の束縛から自由な場所として米国を再定義するのだ。Al-Fatihaがイスラム教とセクシュアリティの問題をより複雑に仕立て上げていたならば、マスメディアが待ち望んでいたオリエンタリストの共鳴を逃しただけでなくーー共鳴しない限りメディアの注目を引く方法はないに等しいのだがーー愛国的政策の致命的な人種差別的影響、つまり監視、国外追放、拘留、登記、先制的移住を導き、人々を危険に晒し得たのだ。
  […] 私たちは「タブーとしてのホモセクシュアリティ」の生産がいかに西洋の眼差しとの邂逅の歴史の中に位置付けられるかを検討しなければならない。かつてフーコーのアルス・エロティカやサイードの脱構築な功績において、オリエントは付随するアイデンティティや連鎖を伴わない根源の釈放、自由な罪や行為の場所として考えられたものだが、今や抑圧や倒錯の空間として象徴化され、自由の場は西洋へと移動させられてきた。 […] パトリック・ムーアが派生させた、行為から最終目的としてのアイデンティティ[への移行]は、(米国アメリカのホモセクシュアリティの中心で行為-アイデンティティの関係の混同を軽視しながら)西洋をアイデンティティの空間として描写する一方で、どうやら彼によると「イスラム教のホモセクシュアリティとの問題のある関係性」のために、アラブ世界は行為の退化した領域へと追放される。[…] さらに、無批判かつ文字通りにイスラム教の性の抑圧の概念を受け入れる中で、我々はフーコーが「抑圧仮説」と名付けたものの痛烈な再演を目の当たりにしている。つまり、セクシュアリティに関する議論や開放性の不足は、失われた性欲の抑圧的で検閲に突き動かされるような装置を反映しているという仮説である。*9 サイードのオリエンタリズムにおいて、オリエントに見られる無法のセックスはオクシデントが自ら行使する抑圧仮説から解放されるために探し求められたものであったのに対し、アブグレイブの場合には対照的にアラブの受刑者たちの抑圧こそが、アメリカの刑務所看守にはびこる性欲過剰を消し去るために強調されているのである。 […] 相互に排他的で不連続なカテゴリーとして「ホモセクシュアリティ」や「イスラム教徒」をしつこく半狂乱に製造することで、クィアネスは「テロリスト」の諸身体のセクシュアリティの不寛容な形態に対抗して作られた米国の例外的性規範の記述に結託している。さらに、人種をセクシュアリティから永続的に分離させることによって、クィア例外主義は米国ナショナリズムを縫合するように働くーー(性的に抑圧されているか倒錯かあるいはその両方と推定される)テロリストの人種と(白人でジェンダー規範に沿っていると推定される)国家的クィアのセクシュアリティ。この二つは交わろうとしない。

テロリストの肉体性

[…]

 [ヴァギナル・デイヴィスの] テロリストドラァグについてのムニョスの描写 [性的な魅力のある女性らしさを拒否し「地べたを這うゲリラ的表象戦略」を支持することで、米国で最も危険視される市民となること、そしてそれは人種、ジェンダー、セクシュアリティーにまつわる米国内でのテロをほのめかしていることの二段階において、デイビスのドラァグはテロリストである(*ここでプアは、9・11以降の反テロリズムの情勢において、ゲリラとテロリストが全く異なる人種的誘意性を持つことに注意する必要があると述べている)]は、クィアとテロ間の歴史的な収斂状態を指し示すーーホモセクシュアルは国家の反逆者、スパイや二重諜報員であり、マッカーシー時代には共産主義と結びつけて考えられ、自爆テロ犯と同様に死を引き起こし欲望する者であった(両者ともに常にすでに死にゆく者として考えられ、ホモセクシュアルの場合はAIDSの感染拡大によってそうされた)。[….] 対テロ戦争を通して最も急速に拡散され、グローバル化したマスキュリニティの描写はテロリストのマスキュリニティである。つまり、破綻し倒錯し、これらの骨抜きにされた身体は誤作動の基準点として常にフェミニニティ(女性らしさ)を持ち、心身のあらゆる種類の病理学に意味論的に結びつけられているーーつまりホモセクシュアリティ、近親相姦、ペドフィリア、狂気、疾病である。[…] ウイルスのように広がっていく爆発的なテロリスト・ネットワークの集まりにより、それらを切り詰めようとする努力にもかかわらずその影響力は絶えず再生し、テロリストは計り知れない未知のヒステリックな怪物であると同時に、それでも米国の諜報安全システムの並外れた能力だけが鎮めることができるものである。この未知の怪物は偶然の傍観者や寄生虫ではない。国家はこのあふれんばかりの不快感をこれらの諸身体の理解不可能性と同化させ、理解不可能物の目録を作ることで新しい規範性と例外主義を情動的に生み出すのだ。そこで、私たちはクィアテロリストを発掘したり、テロリストをクィアしたりする実践に従事しなければならないわけではない。むしろ、クィアネスは常にテロリストを名付けるプロジェクトにすでに組み込まれているのであり、倒錯、逸脱、奇形の同時的参入なしに、テロリストはそういうものとして現れることはない。第一に研究主題をクィアするよりも、研究主題をすべてのそのクイアネスに登場するよう奨励する戦略は、方法主導の一時性と並行して主題主導の一時性を提供する。クィアされる主題と、主題の中にすでに存在する(それゆえそういうものとして主題を消散する)クィアネスのこの差異を試してみると、ビーイング(存在すること)の一時性と常にビカミング(なること)の一時性の両方が可能になる。
 実体がないようにクィアするアイデンティティは存在せず、むしろあらゆる方向から現れてくるクィアネスは、その抵抗を叫びながらインターセクショナリティからアッサンブラージュへ移行することを私に提案する。 分散しているが相互に関与した一連のネットワークとしてのドゥルーズ的アッサンブラージュは、言表と分解、因果関係と効果を一緒に引き出す。 人種、階級、性別、セクシュアリティ、国家、年齢、宗教などの構成要素が分離可能な分析方法であり、それゆえ分解することが可能であると推定するアイデンティティのインターセクショナルのモデルとは対照的に、アッサンブラージュは直線性、一貫性、永続性に反した時間、空間、身体を融合し消散させるような織り交ぜられた力により一層調和している。インターセクショナリティは空間と時間にわたってアイデンティティを知り、名付け、それゆえ安定化することを要求し、それと同一化することの虚構的でパフォーマティブな側面を否定する進歩の流れを生成する。つまり、あなたはアイデンティティになる、そうその通り。しかし同時にその永遠性はどんな場所であっても継ぎ目のない安定したアイデンティティの虚構性を強固にするように機能する。多様性を管理する道具でありリベラルな多文化主義のマントラとして、インターセクショナリティは国の規律装置(国勢調査、人口統計学、人種プロファイリング、監視)と共犯する。その装置において、「差異」は大雑把なアイデンティティを単に陳腐なマス目へと入れようとする構造的な容器に収められるのだ。視覚的で聴覚的、判読可能であったり、触れることができたりする明らかなアイデンティティまたはモダリティとしてクィアネスを置き換えることにより、アッサンブラージュは出来事、空間性、および肉体性に宿る強度、感情、エネルギー、情動、質感の感受を可能にする。アッサンブラージュが感情、触覚、存在論、情動、および情報を強調する一方で、インターセクショナリティは命名、視覚性、認識論、表象、および意味を特権化する。最も重要なのは、現代の政治領域におけるナショナリズムの死の機械的側面の高まりーーアキーユ・ンベンベによって「死政治」と描写された感覚的および構造上の統治の高まりーーを考慮すると、アッサンブラージュは帝国を守る米国例外主義の流れに反する働きをする。国家的監視と管理の慣行を伝達する人種と性分類法の普遍性に挑み、対テロ戦争における「私たちv.s彼ら」を混乱させるのだ。
 […] ンベンベは生権力から死政治への移行(生の服従から死の権力)を論じ、(西洋の)政治的合理性の概念に依存している統治権の歴史的根拠はより正確な枠組みを要請すると指摘する。つまり、生と死の枠組みである。*15 […] この種のテロリストのクィアなモダリティの考えを巡らせる際、奇妙なパスティーシュに気づく。金属と肉を通して共に機械化された身体、つまり有機物と無機物のアッサンブラージュ。自己の死でも他者の死でもなく、同時に両者の死。抵抗と自己保存の究極の形式としての自己消滅。この身体は不可避の崩壊を通じて対立するものの和解を強要するーー矛盾の倒錯した住処である。 HIVに苦しむ同性愛者のように、ビカミングの最中であっても常にすでに死にかけている姿として、自爆テロ犯は彼/彼女の地位を性的倒錯者として縫合する。*16 ンベンベはまた、自爆テロ犯のクィアビカミングーー「弾道学」の肉体的体験ーーを指摘している。 自爆テロ犯の身体に縛り付けられたダイナマイトは単なる付属物ではない。 身体に伴った武器の「親密さ」は、インターセクショナルなアイデンティティの権限にある身体について仮定されている空間的完全性(一貫性と具体性)と個人性を再定位する。そしてその代わりに、私たちは身体-兵器を持つ。 身体の存在論的情動によってクィア的にその身体は新たなビカミングな身体にする:

殉教の候補者は、すぐに爆発を引き起こす兵器を隠す仮面へと彼/彼女の身体を変容させる。[…] その身体は単純に兵器を隠すわけではない。身体は比喩的な意味で変容させられたわけではなく、まさに弾丸という意味で兵器に変容させられたのである。*17

[…] その身体-兵器は隠喩を演じていたわけではなく、意味と認識論の領域にいたわけではない。むしろ私たちに存在論的に改めて問いを強いるのだーー弾丸となった身体はどんな種類の情報を伝えているのか? ビカミングの真っ只中にあるこれらの諸身体は内面と外面をぼかし、感覚を通じて変容に感染し、残響と振動によって知識を共鳴させる。 共鳴はクィアの一時性であり、 諸ビーイング間およびその最中の情動的情報の中継における、反射、反復、反響、そして回帰(ただし、模倣のように違いを伴って)の連続である。そして現在に突入する未来の波を生み出すのだ。『サバルタンは語ることができるか』において多様な解釈が可能な自殺のテクストに織り込まれた性質へ私たちの注意を向けるように予見していたガヤトリ・スピヴァクは、彼女の最新の反芻の中で、情動的情報の中継としての自殺テロはサバルタンにとっての表現とコミュニケーションのモダリティであると私たちに思い出させる。
 クィアアッサンブラージューー存在やアイデンティティの「クィアする」こととは異なるものーーとして、人種とセクシュアリティは非永続性と自爆テロ犯のはかなさによって脱自然化される。つまり、 つかの間のアイデンティティはその溶解を通じて逆再生されたのだ。自己の他者への、そして他者の自己へのこの溶解は、対テロ戦争における自己および他者の絶対的な痕跡を消すだけでなく、善と悪の規定を編成するマニ教的合理性の全体的な秩序に対する体系的な抗議を生み出す。自爆テロ犯は「他に取る手段がないときには身体に刻まれたメッセージ」を伝えることで、合理性を超越あるいは主張したり、非合理性の境界を認めたりはしない。 むしろ、彼らはそのような区別がはびこる欠陥した一時的、空間的、および存在論的な推定を前景化するのだ。
 […] ンベンベにとっては、身体的境界線の溶解としてのセクシュアリティは、死の弾道的な出来事を通して詳しく説明されている一方で、女性自爆テロ犯にとってはセクシュアリティは常に事前に公表されている。つまり、マニキュアをした小さな手や神秘的な美しさ(「暴力と混ざった美」)、そして彼女の顔と体の特徴は、男性の自爆テロ犯には要求されない方法で意見が述べられる。すなわち、女性自爆テロ犯の行為の政治的重要性は、彼女の理性を欠いた感情的で精神的苦痛と思われいるものについての妄想から、あるいはその内部へとジェンダー化されているのだ。*19 女性自爆テロ犯は、テロリズムは家父長制から直接的に生まれたものであり女性は本質的に平和を示しているというありきたりな命題を混乱させる。しかし、観察者が女性はジェンダーやセクシュアリティの伝統的な構成から追い出さたりまたは忌避されると(レズビアンであると非難されることが多い)暴力に向かいやすい傾向があると宣言した場合、この理論的根拠は書き直される。これらの散漫的で身体的なアイデンティティの指標は、インターセクショナリティの永続的な可能性を反映しているがーーこのことを完全に後回しにすることはできないーー、その限界も反映しているのだ。
 クィアネスがいかに自爆テロ犯を構成しているかについては、ンベンベとスピヴァクそれぞれが暗に示している。性のアイデンティティから断絶し、代わりに一時的かつ空間的、肉体的分裂を示すことで、クィアネスは身体が象徴的に、教育的に、そしてパフォーマティヴに機能するために必要不可欠なものとしてその内部に装備され、そしてその通り機能する。「適切な」身体的実践の規範的慣習や健常な身体の尊厳に背きながら、諸身体の境界線の離散は、ジェンダーやセクシュアリティ、人種の規範的慣習に対して全く混沌とした挑戦を強いる。であればここから、文化的、民族的そして宗教的にナショナリスト、原理主義者、家父長制主義者、そしてしばしば同性愛恐怖症でさえあると典型的に解釈されるこれらテロリストの身体は、クィアな身体であると再解釈することが可能である。このクィア的再解釈を政治的議論に持ち込むことを過小評価すべきではない。「味方か敵か」という対テロ戦争のレトリックの動乱の中で、アッサンブラージュのクィア的実践は、監視、制御、追放、駆逐など国家的慣行の目を晦まし両者を掻き乱すことが出来る。仮に国家と市民権が異性愛規範の特権的な暗黙の了解であると考慮するならば、そのように考慮すべきとされているように、これら非例外的テロリストの諸身体は非異性愛規範である。異性愛規範は(白人)人種と(中流から上流)階級の特権に関することであると同様に、性のアイデンティティ、同一化、そして行為に関することでもあるというキャシー・コーエンによる主張*20 に従うと、これらの諸身体を性的倒錯というスポットライトの中に放り込むことで、(アメリカの帝国主義者による)国家も同様に精神的かつ物質的な同一化における非常に重要な軸として現れる。ホモ-ヘテロ分離における国家の倒錯的存在を埋め立てることを通して、クィアネスの方針は本質的に反ナショナリストである。情動的肉体のクィアネス、それは性、ジェンダー、性的対象の選択を超えた規範化し抵抗する身体的実践を前景化するクィアネスであり、それに注意を向けると、クィアネスは領域やベクトル、地帯として拡大し、散発的にではなく常にナショナリズムとその権限内の人種を説明づけるものであり、クィアの表象とクィアの情動性との関係性を頑なに解き放つべきものなのだ。


情動的クィアネス


[…]

 テロリストによく似た身体は、クィアネスの判読し難く比較しようのない情動を暗に示すーー諸身体はある意味で存在論と情動の領域つまり触覚性、知覚性へと共に機械化され、アイデンティティや視覚性、可視性を超えて非凡である。(…) マイケル・タウシグの「触覚的に知る」*25 という観念を再考しつつ、メイ・ジョセフは以下のように雄弁に主張している。

征服や文化的接触を複数経験したことによってバラバラに分解され突然変異させられてきた社会的知識の形態をもつ文化にとって、触覚的な実践は判読が難しく、さらに複数の意味を包含している。そのような交流はしばしば非公式の出来事であり、文化的知識が引用や転送、再盗用されることを通して日常生活に備わっているのである。その感覚は質感を獲得する。*26

「視覚の論理を組織立てることを超えて感覚に浸り、歴史という看板として記憶を追いやる」*27 ものとして触覚的知識は、人種化されたテロリストによく似た諸身体に危険や恐怖、メランコリアを規範化していく痕跡を装備する。ターバン着用者にとって、儀式や感覚は身体の一部に付随しているーー毎週糊付けし、数ヤードのキメの粗い布地を柔らかくするために引き伸ばし、そして所定の位置に巻きピン留めする際の匂いーーこれは以前とは定性的に異なるものになっていく間の経験なのである。クィア的に情動的で触覚的な領域を通して、覆い隠すことがもう一つのフェミニニティを示すものと判断されてきたように、シグ教徒のパグリあるいはターバンは(テロリストの)マスキュリニティの銘刻を獲得する。ターバンを巻いた男性は、恒久に見当違いの伝統や(家父長制であるにもかかわらず)抵抗する反同化主義者の態度を示す単なる印ではもはやなくなり、今や二度と文明化することのない怪物の歴史と空間に居住する者なのである。 […] ターバンの分類学、その特定の地域的、場所的な系譜学、時空間における彼らの位置づけ、そして彼らの特異性と複数性にもかかわらず、モノリスとしてのターバンは国家と国家の安全をひどく困惑させ妨害する。[…] ターバンが悪辣に引っ掛かれたり髪の毛を引っ張られある時には切られてさえしまうようなヘイトクライムが次から次へと理由なく起こるのではない。このような暴力の親密性を誇張することなどできない。この攻撃は二重の去勢として機能しているのだ。つまり、髪の毛の除去は規範的家父長制度のマスキュリ二ティによる、そしてそれへの服従を必要としながら、脱がせることは(大抵の場合)男性の(シク教徒かイスラム教徒の)代表に対する誹謗である。ターバンは、規律され得るものと規律に反すべきものとの間に絶えず陥る状況を暗に提示しているのだ。その結果、時に死が伴う。
 シク教徒といえば、1990年代初頭にアメリカ北西部とカリフォルニアへの最初の移住者が「ヒンドゥー」と誤って呼ばれ、今ではイスラム教徒であると間違われている。この誤解されたアイデンティティが9・11以降のヘイトクライムの主要な原因であるという仮説が保守的また進歩的党派に似たような者たちによって取り入れられてきている。 […] 誤解されたアイデンティティの観念は複数の前提に依拠している。すなわち、観察者はシク教徒のターバンとイスラム教徒のそれとの見た目の違いを見分けることに開放的また積極的であること、またリベラルな教育によって普及されたような多文化主義の理想は差異の中に存在する差異は重要であると認識しているという前提である。誤解されたアイデンティティに注目することは、ターバンの情動的経験よりも視覚的経験を支持し、その経験はオリエンタリズムの歴史的形成を歓迎し、恐れ、憎悪、嫌悪を誘発する。触覚的経済は認識論的にではなくむしろ存在論的に知ることを再主張し、視覚を通して判読できると考えられているものを超えて、触れること、質感、感覚、嗅覚、感情、そして情動を強調する。[…] 視覚性、情動、女性化された立場と身体的無機性のアッサンブラージュこそがヘイトクライムの遂行におけるクィア形成を説明づける。
 ターバンを巻いたテロリストのクィア・アッサンブラージュは、クィアな南アジアのディアスポラの中にあるテロリストの肉体の多産化と陰影を語っている。その諸身体はクィアであると再主張されるべきなのだ。南アジアのクィアなディアスポラは(米国の)少数派例外主義の形態を模倣していると言えるかもしれない。すなわちクィアを、ナショナリスト的衝動がない模範的なあるいはゆれ動く場だと位置付け、クィアネスをディアスポラのもっとも逸脱的な潜在性に匹敵すると捉える例外主義の形態である。しかし、いまや偏愛化されたデシのドラァグクイーンとターバンを巻いた者、でなければシク教徒かイスラム教徒のテロリストの間の緊張ーーそして重なり合いーーはこの例外主義を和らげる。[…] シク教徒のディアスポラに関する研究を引用しながら、ブライアン・ケイス・アクセルは「祖国がディアスポラを生み出すと捉えるのではなく、ディアスポラが祖国なるものを生み出していると考える方が生産的なのではないか」と主張している。28彼は、祖国は「ある場所としてではなくむしろ情動的で一時的な過程であると理解されるべき」だと提案する。*29
 […] 「異なる諸身体や肉体のイメージ、セクシュアリティやジェンダー、暴力の歴史的形成」は祖国という場所と同じくらい深くディアスポラな想像性を構成するとしながら、アクセルの公式を生産的に再考することで、国家とその地勢的配置の惰性をさらにクィアすることが可能だ。クィアなディアスポラの観念はディアスポラを再整備し、祖先の祖国を共有することとは異なる、あるいはそれを超えた繋がりを説明づける。つまり、束の間のあいだ故郷から離れることで、ディアスポラの親和的でカタルシスな存在の別のあり方が可能になり、そしてアクセル(そしてンベンべ)にとっては、その親和的な力を見せることで第一に身体とそれに取り憑くトラウマの別のあり方を可能とする。さらに、起源の場所、つまり、ディアスポラを束縛する二つの言葉の一つである国家を不安定にすることは、実際のところ祖国からディアスポラという最終目的を傷つけ、親類関係、所属、そして祖国についてのクィアなナラティブを可能にしながら、ディアスポラの権限から自動的に生まれた祖先の連続性を歪める。それゆえ、場所の感覚は距離を通してエネルギーを注入された多方面にわたる強度の一つである。すなわちアクセルにとってディアスポラとは人口統計学的な地勢的場所を表象するだけでなく、根源的に歴史や記憶、あるいはトラウマをも通して表象されるものなのだ。それは、感覚、振動、共鳴、速度、フィードバックループ、そして回帰的な折り目と感情を通して結合するのであり、肉体性や情動性、私が追加するとすれば複数の偶発的な時間性を通して癒合する。つまり、アイデンティティを通してではなく、アッサンブラージュなのだ。
 […] ターバン、生殖器、肛門が集団的に男根の強要力を引き受けている。つまり、性的な侮辱は服従させるために剥き出された頭部と然もなくばプライドを脅かすような髪の毛の使用に始まり、慣習的な性の対象へと続く。とりわけ肛門への拷問はアナルセックスを装い、そうすることでホモセクシュアリティの観客を掻き立てようとする。ターバンを巻いた男性の身体は、今やターバンを剥がされ拷問される身体であり、効果的に宗教的に無力となり、国境への脅迫を繰り返すことは不可能になる。[…] 身体のクィアネスがいくつかの側面で確認されている点でこの[性的]暴力はパフォーマティヴである。第一に、国家と文化の生殖者として女性に注目する規範から離れ、生殖能力が男性テロリストの身体へクィア的に侵略している。第二に、その身体から生殖能力が象徴的に剥奪され、反国家的なセクシュアリティのクィア的領域へと駆り立てられる。つまり、一時性が再計画されるのだ。なぜなら、規範的で同族の親類関係の形は世代の継続性によって生じるという想定が破綻するからだ。[…] しかし第三に、ターバンを巻いたシク教徒の身体のクィア的形成と並んで、この身体はすでにクィアとして現れているのであり、それゆえに拷問は引用的な意味においてまさにそれを例示するクィアアッサンブラージュを実行しているのだ。アッサンブラージュは、この身体ーーシク教徒、男性、ターバン着用者、異性愛者だが倒錯している者ーーを閉じ込めるアイデンティティの指標を通してではなく、むしろ拷問されながらその身体が一時的、空間的な再配置を反復することによって可能になる。ここに倍増した時空間が存在する。なぜなら身体は規範的な(インドの)国家的美学のために改造されると同時に、それでいてその生殖機能は去勢されるために国家から投げ出されるからだ。空間的に国家の内部と外部両側に配置され、時間的には常に国家的かつその対立物の両方になっていきながら、アッサンブラージュは一時的で束の間ですらあり、そして新しく何かになっていく状態の最中にあってさえ、規範的なアイデンティティの指標に屈してしまうのだ。
 […] クィアな怪物とクィアなモダニティが混合するなかで、[ターバンを巻いた男性シク教徒とその他テロリストのアッサンブラージュのクィア的占有は]組織化した知的プロジェクトの内部で創造的に力強く、そして予期せぬ形で政治的な地勢を混乱させる。これらテロリストのアッサンブラージュは、首尾一貫したアイデンティティとクィアな反アイデンティティの物語さえも傷つけるような情報の流れ、エネルギーの強度、諸身体、そして実践の不協和音であり、多くのグローバルなLGBTQ組織に浸透するフーコー派の「行為からアイデンティティへ」の連続体、つまり西洋のモダニティの進化形としてアイデンティティーの極地を特権化する連続体を完全に迂回する。[…] アッサンブラージュを通してであろうがまだ知れぬ何か、あるいはそれどころか永遠に知ることのできないものであろうが、未来の空想的驚嘆へと切り開くことが最も強力な政治的かつ批評的戦略なのだ。

*1. Joan Scott, “Gender: A Useful Category of Historical Analysis,” in Gender and the Politics of History (New York: Columbia University Press, 1988), 28–52.
*6. Joe Crea, “Gay Sex Used to Humiliate Iraqis,” Washington Blade, 7 May 2004.
*7. Andrew Sullivan, “Daily Dish,” www.andrewsullivan.com (accessed 4 May 2004).
*9. In the face of the centrality of Foucault’s History of Sexuality to the field of queer studies, it is somewhat baffling that some queer theorists have accepted at face value the discourse of Islamic sexual repression. That is not to imply that Foucault’s work should be transparently applied to other cultural and historical contexts, especially as he himself perpetuates a pernicious form of orientalism in his formulation of the ars erotica. Rather, Foucault’s insights deserve evaluation as a methodological hypothesis about discourse.
*17. Mbembe, “Necropolitics,” 36.
*25. Michael Taussig, Mimesis and Alterity (New York: Routledge, 1993).
*26. May Joseph, “Old Routes, Mnemonic Traces,” UTS Review 6, no. 2 (2000): 46.
*28. Brian Keith Axel, “The Diasporic Imaginary,” Public Culture 14 (2002): 426.
*29. Ibid.

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