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インタビュー 遠藤麻衣 × 百瀬文:書き換えたり書き換えられたり
#Editorial, #Conversation 2020年7月にTalion Galleryで開催された展覧会、遠藤麻衣 × 百瀬文「新水晶宮」(2020年10月3日 〜11月3日に京都VOU/棒に巡回)でマルスピを知ってくださったり手に取ってくた方が多く、その感謝も込めて、おしゃべり作品のおしゃべり、アーティスト二人のインタビューを公開します。「新水晶宮」での共同制作に始まり、二人の関心事や実践が交わり拡張されたり変容したりしていくこと、そしてファンタジーや赦しの話まで、おしゃべりは終わらないよ!(2020年7月18日zoomで収録後、加筆修正) 写真:金川晋吾 丸山美佳(以下、🌵):展覧会に『マルスピ vol.2』を置いてくれたおかげで、私たちの力だけではなかなか届かない層にまで届いたようでとても嬉しいです。残念ながら私は会場に行けないのだけれど、展覧会に来た観客の反応はどうだったの? 遠藤麻衣(以下、🍋):展覧会は二つの映像作品が一望できるインスタレーションとオブジェが一つ展示してあって、喋り声がずっと空間に響き渡っている感じ。その声の印象が強いのか、粘土の映像《Love Condition》(2020)の感想がすごく多くて私は意外だった。視覚的なインパクトっていうと、砂漠の映像《Love ConditionⅡ》(2020)が強いと思ってたんだけど。 百瀬文(以下、🍑):おしゃべり自体をそのまま作品化するってことが新鮮だったみたいで、それでつい聞き入ってしまうみたい。「あ、本当にそのままおしゃべりしてるんだ」みたいな。 🍋:砂漠の方は、なんじゃこの生き物はっていう反応かも。 🌵:映像見ながら一人で大笑いしちゃったんだけれど、カメラアングルによっては特撮やSFの映画を思い起こさせるのに、途中からナショナルジオグラフィックの生物の生態をずっと見ている感覚になった。 🍑:感想もいろいろあって面白かったなぁ。作中のおしゃべりではいろんな話題が生まれては過ぎ去っていくから、人によって興味のあるポイントが変わってくる。話題がまるで行ったり来たりする波のように展開するのは面白がってもらえたかな。あとは「性器」って性愛だけの器官じゃないから、「気持ちいい」とか「快楽」って単語が出てくるとちょっと萎えちゃうっていう人もいた。他にも、ペニスはおしっこする器官でもあるから、そこを考えてみてほしかったとも言われた。逆に美佳ちゃんは良いなって思ったところある?🌵:作品を見て率直に思ったのは、姿が見えてないけど二人が滲み出てる作品だなって思った。二人ってアーティストとしての作風もパーソナリティも全然違うじゃん。作中で、百瀬さんは世界にとってどういう意味をなすのかっていうことを考えながら作っている一方で、麻衣ちゃんがそれを切り崩して行く感じがあって、そのバランスは、麻衣ちゃんだけでも百瀬さんだけでも成り立たない絶妙なバランスだなぁと。他者と触れあう場所って自分だけじゃコントロールできないって話を何度もしていたと思うけど、それは二人の関係性のなかにもあったし、現在の状況も反芻しながら見てたかな。あと、粘土も砂漠も盛り上がりがずっと気になっていたし、その形態を変えたり這いつくばりながら、象徴的なものを作ったり壊していく力の潜在性が一体となっている過程みたいなものを見せられた気がした。印象に残ったのは、おしゃべりの後に手を合わせる無言のシーンが逆に凡庸に見えたことだった。緊張感を起こそうとしている場面だし、確かにインテンスな雰囲気のなかの力学みたいなものを感じる場所なんだけれど、映像のなかで強さを感じたのはおしゃべり途中の何でもないところだった。 🍑:私はおしゃべりと粘土コネコネを通じて、自分が麻衣ちゃんにマッサージされたような感覚があった。冒頭はボケとツッコミみたいな感じで、私がファシリテーターみたいに麻衣ちゃんの言葉を鑑賞者に向けて翻訳しているような感覚があったんだけど、だんだん自分が論理的に把握することができなくなる段階があって。その手遊びの中に自分の身体ごと参加することによって、どこかで整理することをやめた。だから、だんだん私の発言もわけがわからなくなっていくというか。最終的には「この性器を通して過去や未来の人ともセックスできるようになるんだよ」とか、前半と比べるとすごい飛躍したことを言っている。自分の中のマスキュリニティがほぐされるって感じが個人的な体験としてはあったかな。鑑賞者が見たらまた違うんだろうけど。 🌵:それは伝わったんじゃないかな。最初はお互いに何を前提とするのかを探り合うみたいな感じが伝わってくるから、見ている方もある程度のガイドが必要となる。それを百瀬さんがやろうとしているようにも思えた。初めにペニスと穴のようなものを作っていたけど、所々で「女と男を前提にしたほうがいいのか」みたいなことを投げかける。けど、お互いにそれに答えないし「どうだろう…」みたいに濁す。性器の生成をするっていったときに、その前提がどこに置かれているのかがよくわからないから、鑑賞者は逆に自分の前提がどこなのかを省みちゃうような気がした。二人はどこを前提とするのかを話していたの? 🍋:決めてなくて。打ち合わせで何かを話しちゃうと本題に進んでしまうし、そうすると撮影のときには打ち合わせで話したことを繰り返すことになってしまうから。だからなるべく核心というか、この話題について話すのは撮影まで控えていた。 🍑:打ち合わせをすることでグルーヴが失われてしまうのが良くない気がしてたし。私のパートナーは、この作品を見たときに「そこちゃんと決めてないのかよ!」みたいな気持ちになったと言ってた(笑)。でもそこが決まってないことによって、ザワザワするというか、そこでやきもきしてしまう自分というものに気づかされたと言ってたな。 🍋:私は作品を見てくれた方から、まさに今言っているようなメールをもらったよ。「全く前提がわからなかったから、何か参照している文脈はありますか」って。 🍑:そういう無防備に始めていることがこの作品では意味があると思っていて、こういう話題に触れるために「防備」しないといけないということ自体が、もしかしたらおかしいのかもしれない。 🍋:わりと迂闊なことを言っているもんね(笑)。 🌵:人によっては、その無防備さに耐えられないのかもね。それでもおしゃべりが成立しているから、そこに何かがあるんじゃないかと思ったりしてしまう。あとは「理想の性器」という文言だったり、ファン創作のカップリングとか、ちょいちょい意味ありげな文脈が差し込まれている。このあたりについてはどう話し合っていたの?  🍋:展覧会をやるって決まったときになぜかお互いに「オメガバース」(*1)を前提にしようっていうのは初期プランからあった。でもそのファンカルチャーを題材に進めていくと、私たちのオタク度では敵わないし、それを掘り下げていくのは展示としても難しいねってなって。だからオメガバースの文脈よりも、「理想の性器」をダイレクトに考えた方が二人でやる作品としてはいいんじゃないかと。 *1: BLの設定の一つ。男女のほかにα、β、Ωの3つの性があり、その3つの間にはヒエラルキーが存在している世界。少数派であるΩは男女問わず妊娠可能な身体を持ち、定期的な「発情(ヒート)」により無自覚にαとβを誘惑してしまうことから社会的弱者であったり忌避される設定がされている場合が多い。アメリカのファンカルチャーから生まれたといわれており、発情の他に「番(つがい)」など狼の生態を真似ている。 🌵:オメガバースの性器が変化するっていう想像はそのままに...。 🍋:そうそう! 🍑:オメガバース自体がまだ認知度も低いし、その紹介みたいになっちゃうのは避けたかった。あと、オメガバースの設定を考えていくと子どもを産む役割の話に寄っちゃうから、そうではなくてもっと身体自体の話がしたかった。 🍋:うん、生殖の話とは切り離して考えたかった。 🍑:作中でも早々とその話題は切り上げていたしね。 「新水晶宮」展示風景(タリオンギャラリー) 🍋:最近読んでいたオーラル・ヒストリー・アーカイブに、九州派の田部光子さんの《人工胎盤》(1961年、2004年再制作)について書いてあって。妊娠していた頃に、女性の妊娠からの解放という意味を込めて作られたオブジェなんだけど、2000年代に南嶌宏さんが再制作をお願いしたときに、田部さんはあまり作りたがらなくて。初期作品は、逆さにしたマネキンに釘を打ちつけたり穴を開けて胎盤のようにしたりで痛々しさがあるものだったらしいんだけど、再制作では釘などを取っ払ってピンクのフワフワした可愛らしい子宮になったんだって。その経緯をまとめた中嶋泉さんの報告で赤瀬川源平の《ヴァギナのシーツ》の制作態度や評価との違いが述べられてるんだけど、田部さんが作ると「あなたの子宮」って捉えられていたんだなって思った。(*2) *2: 60年代に当時周りから「あんたこんな作品つくりよったら、変な子ができるばい」って言われたことなどに影響を受けているように思われる。『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブ』「田部光子オーラル・ヒストリー 2010年11月29日」、「シンポジウム『戦後日本美術の群声』(2017年7月9日)」  🍑:女性作家が女性器を扱うとドキュメンタリーとして認識されてしまう構造があるのかも。実際はオブジェにする過程ですごく客体化しているはずなんだけれど、周りがそれを許さず「あなたの子宮」になってしまう。一言も自分の器官なんて言っていないのに。 🍋:一方で男性の作家が女性の身体を扱っても、日常における感性と完全には切り離せないと思うんだよね。自分の身体をキャンセリングして話しているときには違和感を感じてしまう。「男性」でくくっちゃうのは大雑把な話ではあるんだけど...。 🍑:だからこそ現代は男性作家は大変だろうな、と思うときがある。安易に女性を客体化したイメージを使うと、その必然性を問われる世の中だから。昔みたいに無邪気に扱えないよね。 🌵:でも逆に、「僕は男性だから」って話をはじめたりする人がいるけど、そこに続くのは「わからないということを前提にしています」となる。その線引きは分かり合えなさを受け入れようという態度よりも、予防線を張っているように見えるし、こういう話題になったときは結局のところ、男性という単一的なアイデンティティの視点でしか物事をみていないのかな、って疑ってしまうこともあったりする。 🍋:あいちトリエンナーレで東浩紀さんがアドバイザーだったときのトークイベントでも、そういう話し方をしていたよね。なんでアフォーマティブ・アクションが必要かって言ったら、男性の身体ではわからない、女性の身体でしかわからないことがあるからだって。🌵:もちろんある程度のアフォーマティブ・アクションは必要だけど、構造的なジェンダーやそれに基づく性差に依拠したアイデンティティをわからなさの理由にするのはどうなんだろうかと思う。 🍑:そうすると女性の身体を他者としてみなすことから逃れられないよね、結局。そこに限界を感じるし、それだと女性の身体を持った人しか語る資格がないことになってしまうから、私はそれはしたくない。 🌵:仮に複数の「女性」がいたとしても、身体上で経験や行動として物質化するものは異なるし、それは「女性だから」あるいは「女性の身体を持っているから」という言葉だけでは語りにくいものが圧倒的に多い。ただ一方で、社会的なカテゴリーとして「女性」に入れられることで、その構造が生み出す差異によって生まれる経験だったり差別というものは強調し続ける必要があると思う。この違いって難しいんだけど。 🍑:連帯して声をあげないとそれは見えてこないし、でも気をつけないと、誰かにとってはある同一化を強いる抑圧になることもある。このバランスがいつも難しいよね。私の中には相反する感覚があって、自分の身体は自分のものだって強く思う一方で、私の身体がgoogle documentみたいになったらいいのになって思うことがある。いろんな人が編集したり、消したりして、私の身体を書き換えてくれたらいいのにって。そういう身体のあり方にすごく憧れる。もちろん自分の身体を自分で所有している感覚は大事だけど、一方で「私の身体」なんてものが本当にあるのか? という問いも自分の中にある。そういう矛盾については考えていきたいと思うし、身体はgoogle documentなんだよってーー私の「身体ーテキスト」を誰かが中に入り込んで編集して過ぎ去っていく、そういう経験があったとしたらとても素敵だと思う。 🍋:素敵、私も手塚治虫のムーピーや初音ミクみたいだったらって思うことがある。 🌵:違う回路が開いてきた...。身体の変容のプロセスが自分からだけではなく外圧というか...? 🍑:「圧」っていうと少しネガティブな響きだけれど、あらゆる人とのコミュニケーションが私を変えうるっていう感じかな。批評ってもともとそういうものだと思っていて。批評が世界の新たな見方を与えてくれるわけだけど、それってその人が持つ「テキスト」を書き換えるようなものじゃないかな。そうなると、それぞれがgoogle document的な身体を持っていて、書き換えたり書き換えられたりするし、それが許されている。その「許し」の構造というか、信頼性というのが面白いなと思う。 🌵:粘土はそういう感じじゃなかった? お互いに作るけど、勝手に作り変えちゃったりしていた。二人はおしゃべりしていたけれど、あの作中で実際に書き換えられていたのは粘土だった。二人が前提も決めずに手を動かしながら思ったことを言葉に出していくのは、本人も粘土も一体となって関係性を含めて変容していくプロセスにあるようにも見えたよ。 🍑:可塑性のあるものを使うのはいいなって思っていて。思考って迷うし。おしゃべりって「あ、今のやっぱりなし」とかちょっと考えてリセットすることあるじゃん。そういうことを形でも具現化できたらいいなと。 🍋:SF的要素も大事にしていたから、粘土は大地として見立てていて、そこから二人で生命を作るっていう風にも見えたらいいなって。 🍑:いろんな神話にもあるけど、神様が土から人間を生み出すみたいな。あと展示空間の奥には砂丘の映像もあるから両方とも風景に見えるし、粘土は横たわる人の体にも見える。試しにいわゆるデフォルトのペニスを作っているときとか、横たわっている人のペニスを触っているような気分にもなった。土ってやっぱり生物と結びついたものだと思うし、はるか遠くまでに広がる大地とも繋がる。抽象的な意味での土や大地でもあるし、アダムが土の塊だったっていう身体の象徴でもある。土というものを通して肉のことを考えるというか。 🍋:あと、映像の黄色い背景や展示空間の照明は、人工太陽のイメージもあって。黄色は、平塚らいちょうの「原始、女性は太陽だった」っていう世界観から、もっと人工と自然との境界が曖昧になった現代っていうマルスピ的な文脈の意識もある。 《Love ConditionⅡ》 (2020) 🌵:この生き物のサンプルみたいな写真が送られて来たときに、二人が性器についての作品を作っていることは知っていたから、「ああ、二人の身体は性器そのものになったんじゃないか」って勝手に思ったんだよね。また二次創作の話になるけれど、ケモナーとかファーリー・ファンダム(*3)とかもいるわけじゃん。 *3: 全身もふもふな「ケモノ」キャラクターに萌えを感じたり、性的興奮を覚えたりする人を意味して俗に用いられている語。Furry Fandom(ファーリー・ファンダム)というコミュニティーもあり、擬人化された動物を愛好したり、「ファースーツ」と呼ばれる着ぐるみに身を包み、キャラクターになったりする。 🍋:そうそう、この生き物も、最初はファーリー・ファンダムのファースーツ的なアイディアから出発しているんだ。でも、二人でデザインしていくうちにだんだん手足や目と言った人間ぽい要素がなくなっていった(笑)。オメガバースも狼の習性から設定がきているんだけど、ヒエラルキーがとても強くて。SNSを見ていると、キリスト教で罪とされる同性愛を肯定する設定とも言われていたりする。ファースーツも、もしかしたら性愛の禁止から離れて性行為を楽しむための表象って意味もあるのかもしれない。そう考えると、抑圧や禁止を前提にした打開策的な動物じゃなくて、もっと不自由な動物へむかいたいってのはあったかな。 🌵:動物についてもうちょっと聞こうと思うけど、百瀬さんは過去に獣姦を作品で扱ったり、麻衣ちゃんは最近は動物との融合というか同一化について考えているわけで、ひとまず二人は人間の身体を持っているけれど、人間ではないものとのつながりを考えていると思うんだけれど、その点からはどうだろうか?  🍋:いろいろあるけど.... まずはさ、「女」が動物と同等のものとして考えられていた、つまり人間(=男)とそれ以外みたいに分けられていた時代があったわけじゃん。 🍑:その「獣姦」を扱った私の作品にはヤギが出てくるんだけど、ヤギはかつて兵士の性欲処理として扱われていたっていう都市伝説があるんだよね。そういう嘘か本当かわからない歴史に興味があった。それならだんだんと戦場にヤギがいなくなっていったのは、結局のところ占領した土地の女性たちにその役割が担わされるようになったからなんじゃないかって。だから、女性の身体を持っている私が、かつてそうして犯されてきたヤギとメンタリティを共有することはできるのだろうか、っていうところが始まりだったんだよね。でもあるとき年配の男性アーティストにその作品を見せる機会があって、すごく怒られたんだ。彼は、マスターベーションとレイプの問題は全然違うって言っていて、ヤギの問題はあくまでもマスターベーションで、植民地の女性に対するレイプとは違う問題だって言っていた。私はなんでヤギのことをレイプの問題として扱えないんだろうって思ってたんだけど、そのときは彼の勢いに飲まれて言い返せなかった。動物と人間という関係の非対称性と、男性と女性の関係の非対称性をそれぞれもうちょっと丁寧に考えてみたいと思ったことはあった。 🌵:その非対称性の関係って、作中でも「暴力」とか「刺さる」とかの言葉として出てきていたよね。関係性の中にはなんらかの非対称性を含んでしまうかとは思うんだけれど、二人はその非対称性から違う関係性を作ろうとしていた。例えば、性器の一部を自らのなかに取り入れてしまったり、ポータブル性にしてしまうとか。 🍑:移動するのとか面白いよね。 🍋:あのあたりを喋ってたときに印象的だったのは、百瀬さんが他者っていうことをすごい気にしてるんだなっていうことだった。性器を作ったり誰かとセックスをしたり性的な接触をするときに、「これだと他者がいなくなるね」とか。ポータブルになったときは、そのポータブルになった性器が他者なのか、あるいはそれを持っている持ち主が他者なのか、あの辺りで揺れ動いている感じがした。 🍑:麻衣ちゃんは、あれ(性器)自体が他者だったんだよね。 🍋:私にとってはあの小さな生き物が完全に他者だったから、逆に、これが他者じゃなくなることもあるのかぁって気づかされた感じ(笑)。 🍑:あの時点ではたぶん私は、性器というものが自分に帰属するものだと思っていて、移動もできるけどラジコンみたいに所有の概念があったんだと思う。麻衣ちゃんが「これが他者だよ」って言うから「え、そうなの?」ってなった(笑)。結構そういう瞬間は何回かあって、麻衣ちゃんが「こうだよね」みたいにいうから「あれ、そうだっけ?」みたいな。 🍋:その場の思いつきだけどね(笑)。粘土がそう見えるから、そう発言しているというか。粘土力がすごく強くて。 🌵:造形の力ってことかな?  🍋:だってここにあるじゃん、というのが説得力になる。 🍑:逆に私は考えを具現化するものとして粘土を捉えていて、麻衣ちゃんが「これはこう」って断定するから、最初の方は私は「なるほどね」しか言えてないんだよね(笑)。私の中でおしゃべりのために一つルールを決めていたんだけれど、麻衣ちゃんの言葉を否定しないってことだった。否定しないことで、強制的に無理やり引き受けた上で喋る、みたいな。 🍋:そのおかげで、かなり私は救われた。私は、何か喋ったときに「それはちょっと難しい」とか「あーなんかそれは違う」みたいな、言ったことに対して否定されるとその先が喋りづらくって苦手意識がある。百瀬さんが否定しないっていうのをやってくれたおかげで、何喋っても大丈夫って言う気持ちになれたから、それはすごい大事だなぁって。 🍑:実際は心の中で「それにどう返せばいいんだよ!」とか思って混乱しているんだけど(笑)、でも「そうか、なるほどね」ってとりあえず言ってみることが重要なんじゃないかと思った。そこで、どうやったら自分が納得できるんだろう、どう説明できるんだろうっていうふうに思考が進んでいく。カップリングにも受けと攻めがあって、一応今回の展示は「遠藤麻衣」が先にきているから、一応私は「受け」なんだよね。だから、受けた上で返そうと思っていた。 🌵:作中では、復唱し合うというか、二人で聞き合って了承し合う状況もあったよね。二人の受けと攻めの関係性もちょいちょい変わるんだけど、それは映像でお互いの身体が見えていないことが重要なのかと思った。これに関してはどうかな? 二人とも作品のなかで自分を登場させてきているよね? 🍋:自分の身体が見えていないのは今回すごく大きいことだと思った。粘土の映像では手しか映らないし、着ぐるみを着ている方では、中に誰が入っているかわからなくてアノニマスになっているというか。普段、例えばヌードのパフォーマンスをしたときも、ただの物体として見てもらえないというか、脱いでいるのに「遠藤麻衣」が脱げないというか、社会性がかえって出てきてしまうように思ってたんだけど、今回はそうゆうもどかしさをすっ飛ばせた感じがしてすごく楽しかった。 🍑:生き物を被った映像を編集している時に、お互いに「めっちゃ可愛い❤︎」とか言っていて、自分たちなのにすごい変だなって思ったんだよね。すごい第三者感があった。 🍋:話が飛ぶけど、百瀬さんの《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U》(2019)をアプリで男性化したのがすごく面白くて。 🍑:(笑)これ、ありえたかもしれない自分の別の人生をもう一度生き直しているみたいな気分になるんだよね。むしろポジティブに私は面白がってしまったんだけど。 🌵:(笑)あのアプリを見ていると、世の中のテクノロジーがどこでどんな表象的なカテゴリーを作り出しているかについても考えてしまう。まあ性器もそうじゃん。会話で出てきた性器の整形は一般的に行われているし、一方で、私たちは生まれる前からどんな性器がついているかで性ないしはジェンダー化されてしまっているし、トランスジェンダーが手術を受けるための判断にも外性器の見た目で判断されていたりする。 🍑:会話の中で、膣の緩みを解消するためにヒアルロン酸を打つのが流行ってるっていう話題が出てきたよね。そこで思ったのは、膣の緩みを改善するモチベーションって、より「愛される」体になるためというか、単純に男性を喜ばせたいからとか、そういうことなのかなと。でも、そうじゃない性器の整形ってあるんじゃないかな。例えば、自分の性器を見て自分自身がエンパワメントされるみたいな性器の形ってどんなものが可能なのか? 男性器は包茎手術とかあるけど、それは自分に自信がつくからなのか、それとも女性がそのほうが喜ぶからなのか、どっちなんだろう? 自分を鼓舞するためなのか他者に向けられたものなのかって、結構モチベーションの行き先が気になった。 🍋:ろくでなし子さんは、確か小陰唇を整形したんだよね。彼女の場合は、ウケるからやったって書いていた (*4)。話をすると他の人もウケるし、自分もウケる。ちょうど最近、ろくでなし子さんの女性器の3Dデータのわいせつ性が認定されたという判決が出ていたね...。 *4:『iRONNA編集部』「ろくでなし子が闘うホントの理由」 🌵:今回の二人の作品は、テーマにしているものが予感させるようなわいせつ性はあまり感じさせないものだった。もちろん何をわいせつ物であったりエロと見なすのかという話にもなるけれど。「理想の性器」っていうと、世の中でタブー視されているものをイメージする人は少なからずいるんじゃないかと予想していたんだけれど、それは完全に裏切っているんじゃない?  🍋:文脈とか前提の話にも繋がるかもしれないけど、そういうわいせつやエロを前提としている人たち、あるいは世の中でわいせつと見なされているものに対するなんらかの抵抗を見せて欲しいと期待する人にとっては、肩透かしを食うものかもしれない。エロく見るなっていう抵抗でもないし、エロいものを守れっていう保護でもないし。 🍑:エロを否定しているわけではないけれど、私たちは別にエロを守るための運動をしているわけでもないからね。むしろ画一的なエロに対して「もっとこういうのもあるけど?」みたいな方向かもしれない。それ以外のオルタナティブとしての性器を、数あるチョイスの一つでもいいから考えられたら良いと思った。 🍋:エロの種類ももっといっぱいあっていいと思う。 🍑:エロの種類って良い言葉だね(笑)。 🍋:百瀬さんも言っていたけど、挿入して射精して終わりっていうこと以外を考えたときに、挿入しないエロもあるし、射精しないエロもある。それを質的に手触りのあるものとしてどんどん作っていきたい。 🍑:「何を」そもそもエロとして見るのかとか、そういうファンタジーの存在って、コミュニケーションを次の段階に進める上において少なくとも私にとっては大切なことなんだよね。 🍋:そう思う。エロの種類を増やすっていうのは、ある特定の人とのエロの種類を増やすっていうよりも、もっと色んな人とエロの種類を増やせた方がいいーーというのは、なんとなく私たち二人とも思っている。こいつただやりたいだけじゃないか、って誤解されたらイヤだけど、色んな人とエロの関係を築いてけたらいいと思うんだよね。🍑:これはもうエロという概念を超えたものかもしれないし、エロっていうと、常にそこに欲望する・されるという関係性があるような気がする。だから作中ではエロって言葉は無意識的に避けていたのかもね。 🍋:そうだね。作中ではエロっていう言葉はニュアンス的にずれるな、っていうのはあった。 🍑:さっきからずっとエロばっか言ってるな(笑)。 🌵:粘土の触り方とか音とかは欲望を掻き立てられるものだったけれどね。それに関して面白いなって思ったのは、作中で、内臓とかは「エロティック」で、それは身体の傷つきやすい部分を晒しているからで、一段階上のコミュニケーションであるから、みたいなことを言っていたとこだった。いわゆる普段のコミュニケーションとは違う、脆弱性を前提とした接触としてのコミュニケーションというか。 🍑:この作品を構想している時に、私個人が考えていたことはアセクシュアルの人たちのことだったんだよね。セックスとは人生の喜びそのものである、というのとは違う性器のあり方を考えたかったし、アセクシュアルの人たちを取り残さない性器の取り扱い方みたいなことを考えていた。ただ、今こういうことを言いながら、粘土をいじるとすぐ無意識にファルス的なものを作ってしまったりとか、そういう自分の中でも矛盾があるんだけど。 《Love Condition》(2020) 🍋:言っていることと、やっていることが違う(笑)。でも、その矛盾を隠さない方法があると良いよね。 🍑:そういう矛盾は面白いなと思っていて、フェミニストとしての世界の把握の仕方をしていたとしても、当たり前だけどその人にとっての欲望はそれぞれのバリエーションがあるということだよね。私自身はSM文学好きだし、わりとマゾヒスティックな欲望もあったりして、でもそれと自分がフェミニストであることは両立する。プレイの中でメスブタと罵られながらも女性としての尊厳は両立しうる。むしろその両方をちゃんと楽しく生きることが重要だと思ってる。 🌵:「フェミニスト」っていうと昔から色んなイメージが付きまとって、フェミニストならこういうことをしなきゃいけない、みたいなことはずっとあった。でも、実際のところ恋愛もファンタジーみたいなものじゃん。というか、あらゆる関係性はある種のファンタジーに依存していると思うんだけれど。 🍑:重要なのは、それをファンタジーであるとわかってやっているのか、そうじゃないかということだと思っていて。アセクシュアルの人にとっての抑圧っていうのは、恋愛は当然するものとして自然化されているということだと思うんだよね。でも恋愛って、数あるファンタジーの中から、例えば「今は恋空的な雰囲気」みたいに選んでいるだけであって、デフォルトでみんなが恋愛を信じているわけではないと思うんだ。そういうのをわかってて利用するのはいいと思うんだよね。私だってすごい楽しんでるし。ただ、私が男女3人で暮らしているって言うと、まず恋愛に置ける三角関係を心配される。「嫉妬とか大丈夫?」って聞かれたり、語られたりする。男女が恋愛という要素抜きで共同生活をするってそんなに難しいことだと思われているのかと思うと、ちょっと寂しくなったりはする。 🍋:ファンタジーって、一緒に体験できるかどうか? ってことなんだと思うな。でも、それを確かめるのって難しいとも思う。私は『テラスハウス』が好きで、放送後にSNSでシェアされる感想とかも読んでたんだよね。みんながファンタジーとして楽しんでいると思ったんだけど。出演者の一人に対して心ない書き込みが殺到して、自殺に追い込んでしまうという、とても悲しい結末になってしまった。これがファンタジーなのかそうじゃないのか、共有しにくいものだなって感じたよ。 🌵:ファンタジーを生きている自分とファンタジーじゃないときの自分って切り離せるのかな? ファンタジーを生きてないときの自分がいるかも疑わしいし、かと言って自分の生きている生活がファンタジーかって言われるとそれもどうだろうって思ったりする。 🍋:はっきりとした境界はないよね。分かりやすく、ファンタジーですって合意してから進めればいいのかな? 🍑:例えば、ある人がパートナーに対して「お互いに他の人とも自由な性交渉を持てるようにしよう」みたいな合意形成をすることは、昔より出来るようになったと思うし、可能なものだと捉え始められているんじゃないかな。個人がある合意の元に関係性を築くことに対して、世間がどう見ようと、当人たちが納得していればいいよね、という価値観が以前よりは浸透してきているような気がする。 🍋:合意って大事だよね。いい意味でも悪い意味でも。私は後になって、あの時合意しなければよかった(汗)って思ったりしそうだけど。 🍑:私にとってファンタジーのイメージって、揮発性というか、コミュニケーションにおける「ファ〜〜(ンタジー)」としたもの、というか。 🍋:ファ〜〜(笑)。 🍑:ドキドキとかワクワク的な恋愛感情とかファンタジーって、その場で火がついてぼーっと燃えるものだけれど、それ自体に力があるというよりは、コミュニケーションを推進していくある種のガソリンみたいなものなんじゃないかなって思う。 🍋:結婚は? 🍑:結婚という制度自体を、恋愛の先にあるっていう議論をするから話がややこしくなる気がしてるよ。だって私、普通に麻衣ちゃんと結婚したら面白そうだなって思うし。ある種の共同体を作って運営していくときに、なぜ恋愛が重要なものとして捉えられるのか不思議に思う。 🍋:百瀬さんとの結婚生活は面白そう! でも、自分もかつては、恋愛が前提になってたほうが何かが強力そうって思ってたよ。 🌵:近代のロマンティックラブというか、結婚がロマンティシズムと結び付くとそうなるということかな? 人生そのものが、恋愛を通して崇高さとか個人の成長に繋がるというか。 🍋:そうかも。私は恋愛を通した崇高さっていうファンタジー、好きなんだ...。 🍑:でも、契約書ってもともと、甲と乙が契約中に問題が生じたらふたりで考え直すことが出来る、みたいなことは書いてあったりするじゃん。合意が崩れるようなことになったときに、それを話し合える関係性を作れるかどうかが重要なのかなと思う。人は変わっていくものだし、その変化を受け入れていくことが出来るのかは重要だよ。結婚制度に対して他に言いたいことはいっぱいあるけど、フィットしないってなったらその契約を継続するかどうかを確認できる制度ではある。そこが前提として重要だと思う。 🍋:ところで、LINEマンガの恋愛マンガでその感想欄を見てたまに気が滅入ることがあるんだけれど...。  🍑:見なきゃいいじゃん(笑)。 🍋:結婚生活が長くなると、なんだかんだお互いの絆とか関係性を維持するのに必要なのは肉体関係だから、それさえもなくなると不憫だみたいなことが書かれてあって。話し合いじゃどうにもならない関係性でも、セックスをすれば繋がれるとか書かれていて、「いいね」が大量についているのを見て悲しい気分になるんだ...。 🍑:そこで想像される「じゃあ今日はセックスして仲直りしよう!」っていう状況で、やっぱり挿入とかの形が象徴してしまう何らかの関係性ってあるような気がする。そういうカードの切り方に見えるというか、結局何か挿れて/挿れられてってなっちゃう。そういう形ではないものを私たちは提案したかった。 🌵:そういう性器をカードとして捉えるのは言い得て妙だなと思ったけれど、結局のところ性器が手段になってしまうわけでしょ。 🍑:カードっていうことでいうと、すぐ誰とでもやっちゃう子が叩かれるのは、そのカードの価値を貶めるな、大事にとっておきなさいってことだよね。よけいなお世話だけど(笑)。 🌵:だからそこがタブー性と結び付くんだろうけど、性器をカードとして見るってまさに客体化して見ているし、自分の身体だけれど、何かの交渉に使う部位というか。二人が最終的に作った性器は道が通っていたり、ボールを動かしあったり、カードにはなれないようなものだよね? 🍑:映像の中で言っていたけれど、自分でコントロールできないというか、むしろ性器側が私たちを選ぶということかもしれない。私たちが性器を支配しているっていう意識から解放されることで、そういうカードが切れなくなるというか。 🌵:風に揺られるとか、その痕跡がお花畑になるとかすごい良かった。村田沙耶香さんの『消滅世界』でも描かれていたようにテクノロジーによって内臓が一つ変化することによって、人間の持つ欲望とか快楽の生態そのものが変化してしまうかもしれない。 🍋:人間同士の生身のセックスに嫌悪感を抱いていて、二次元キャラクターで自慰行為をしているけれど、本人にとってはそれがセックスだと感じられるって話だよね。 🍑:接触が気持ち悪いって感じは、コロナによってリアルなものになってきたから、今読み直すとまた違うかもね。(タリオンギャラリーのギャラリストである)上田さんにはあまり時事ネタっぽくしないで欲しいと言われたけれど、やっぱりそういう状況下に作られたものだから、作品内にコロナの話題も出てしまったし。 🌵:実際にどうかは私もわからないけれど、接触を伴う新たな関係性は作りにくいよね。 🍑:ロックダウン下のヨーロッパにおいて、ゲイカップルが感じている抑圧の話を聞いた。日用品の買い出しに行くときも、見た目でいわゆる「家族」とみなされないと注意されたりする世界なわけだから。 🍋:Go To トラベルでも、老人や若者の団体旅行は控えて欲しいと政府が公言していたけど、核家族的な家族像を想定しているように聞こえた。 🍑:特別定額給付金の10万円が家父長制的に夫のもとに一括で振り込まれて、DVを受けている妻にお金が行かないとか、そういうものもすごいあぶり出された気がする。 🌵:それにも関わるけど、上田さんがvol.2に掲載したインタビュー記事「おしゃべりは終わらない(百瀬文 × 多田佳那子 × 遠藤麻衣)」を読んでくれたことが二人の展覧会に繋がったと聞いているけど、あのインタビューはもう2年前という衝撃なんだ。当時は#MeTooムーブメントが日本でも話題になっていたりして、公にハラスメントの問題が議論されるようになり始めたときだった。去年はあいちトリエンナーレもあったし、アートにおいてもやっと積極的にそういう話をされるようになったけど、二人はそういう変化をどう見ている? 社会的なことも含め変化は感じているのかな? 🍋:twitterでいつの間にか「ツイフェミ」っていう言葉が定着したことが興味深いなって思う。イズムやイストがなくなって「フェミ」だけがある? うまく言えないけど...。 🍑:twitterではトランスフォビア発言をする女性たちも目に入るようになった。生理的に耐えられないのだという「傷つき」の問題を”当事者性”を持って書いていて、そういう感情自体が論拠になる、という言説がすごく前面化した気がする。 🍋:あとBLMもあって、日本でも人種主義に対して行動が起こされたり議論されるようになったけど、美佳ちゃんと(根来)美和ちゃんがインターセクショナリティについて翻訳をしていたように (*5)、フェミニズムの問題が人種の問題と交差していない気がする。 *5: 抄訳: キンバリー・クレンショー『人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評』(1989) 🍑:それは単純に教育の問題なんじゃないかな。女性やマイノリティの運動と公民権運動がどういう重なりを見せていたのかとか、そういうものを教わる機会がない。多くの日本人は複数のアイデンティティが一つの身体の中で複雑に絡み合っているということを想像するのが苦手なのかもしれないね。 🍋:アイデンティティって、外側からこういう同一性を持ちなさいよって言われていることも含めてのことだと思うから、個人的にはあまり信じすぎたくない。 🍑:アイデンティティ不在の状態に耐えられず、「この国に生まれてよかった」みたいなことを素朴に思ってしまうとかね。 🌵:そういうアイデンティティの単一的な視点がそのアイデンティティを「傷つけないために」、現実問題として暴力や抑圧対象となっている人たちを排除しても良いというような言説として強化されている感じだよね。 🍑:あと、今ちょうど東京現代美術館で展覧会『もつれるものたち』をやっているけど、ミックスライスが出てるじゃん。移民問題とかを扱っている韓国のアーティストコレクティブだけど、ちょうど展覧会会期中にメンバーのひとりのセクハラが明るみになり、韓国の美術界でかなり激しい糾弾をされたんだよね。そしてそれを受けて、彼は今後いっさいの芸術活動から身を引き、ミックスライスを辞めると自ら宣言した。(*6) 大前提として、そういうマイノリティの声に耳を傾けるようなプロジェクトを行ってきたアーティストが、立場を利用してセクハラするなんてあってはならないことだと思う。けれど、そういうとき、彼個人への社会的制裁はどういうふうにあれば良いのか、と考えたりもするーーコレクティブからの除外と、アーティストとしての活動の終止符を打つ、ということでいいのかな、って。 *6: 美術館ウェブサイトではステートメントが発表されており、「作品はミックスライス がコレクティブとして協働し制作したものであり、他のメンバーによる芸術的貢献は認識すべ き点として重要である」という考えからそのまま作品の出展をしたことが述べられている(2020年9月に更新されたステートメントより抜粋)。 🌵:セクハラ問題って多くの場合は個人の問題として社会的な議論を終わらせてしまっている印象だけど、でもさ、そういうのって一人だけの問題じゃないじゃん。そういうのを許してしまった環境の問題でもあるし。自己責任で終わらせがちだけど、そういうことだけじゃないと思う。ちょっと前にエプスタインのドキュメンタリーを観たんだけれど、まあ陰謀論もあるけど彼は自殺しちゃったし、彼の周りの女の子たちも貧困であったり家庭の問題があったから彼の性犯罪に加担しちゃっていたんだよね。被害者もだけど、それに巻き込まれた人たちも社会の目を気にしながら生きなければいけない。 🍑:私は赦しの問題について考えているんだけれど--私は東京の府中市出身で、通っていた中学校が府中刑務所のすぐ目の前にあったんだ。府中刑務所って、殺人とか、結構重い刑の人が入っているのね。刑務所には一年に一回お祭りがあって、私は塀の中の受刑者たちが焼いたパンを、友達と一緒に食べたりしていたの。その経験がすごく鮮烈に自分の中にある。刑務所の中にこういう罪を犯した人たちがいる、ってビビりつつ、その壁をなぞりながら通学路を歩いていたし、自分がいつあっち側に行ってもおかしくないんだと思っていた。それが当たり前に生活の中にあったから。 🍋:うん、うん。 🍑:ちょっと前に読んだ吉田豪さんの本(*7)で、香山リカさんにインタビューをしている回で話されていることが興味深かったんだけど、宮崎事件とか、酒鬼薔薇事件みたいないわゆる凶悪事件が起きた直後って「あいつは俺の代わりに捕まったのかもしれない」とメンタルをやられてしまう人々が以前は結構いたということなんだよね。つまり自分の中にも「内なる悪魔」がいるのかもしれない、という恐怖、自罰意識に似た感覚があったと。でもいつからか時が経つうちに、人々は「こんな奴は許せない」「身の回りにいたら本当に怖いです」と、その悪魔を綺麗に外部化するようになっていった。最近のインターネットを見ていると、まさにそういう状況だなあというか。塀の中で受刑者たちが焼いたパンを食べることすら生理的に受け入れられない人たちが結構いるのかな、と思ったりすることがある。 *7: 吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書院、2012) 🍋:去年、エミール・ノルデがナチスに傾倒していたってニュースになったよね。ナチスに迫害された作家として認識されていたから、センセーショナルだった。首相のメルケルも、オフィスからノルデの絵を撤去させたりとか。私は、制作物と制作した人の過去の行いとを結びつけることの是非が気になっているんだけど。問題はそこじゃないかもしれない。一つの罪によってその人全体を許せなくなってしまうことなのかも。 🍑:時間の経過の問題なのかな? カラヴァッジオとかは許されてるじゃん。 🍋:ピカソとかもね。 🍑:カール・アンドレは...。 🌵:全然時間の経過じゃないし、「誰が」とがめられないのかという問題もあるよね。ドイツの場合はナチス系のものは禁止されていることとも関係していると思うけど、そういうのを思想の分野でもよく考えたりする。例えばハイデガーもナチスに加担していたわけで、ウィーンにいると人によってはタブー感があるし安直に「反ユダヤ主義」とレッテルを張る人もいる。彼についてはその過去を含めて思想としてかなり議論されてきているし、一方で虐殺に関わってないし無関係だとか言っちゃう人もいる。物書きの人って人間としてどうかしていると言われている人が多いし、行動として出てきたものに目をつぶってしまっている部分が実際のところはあるわけでしょ。その行為を良しとしてしまう構造的な排除の枠組みは再生産すべきでないと思うんだけれど、その場合の赦しとは... 。 🍋:うん。 🌵:でもやっぱり問題なのは組織的に制裁や罰を受けないような人たちがいて、そのために泣き寝入りをしたり黙認を強いられている人たちがいることだと思う。ただ一方で、変化していく可能性はこういう問題で語れることはあんまりないかも。 🍑:自分が犯してしまった過ちを償っていくためのコミュニケーションがどうすれば可能になるのかと常々思うけど、被害者からしてみれば二度と会いたくないっていうのは当然だし。事件としての炎上は一瞬のうちに消費されるけど、回復の物語や、更生の物語は時間がかかるから人々の関心の対象になりにくい。制裁の先の、小さなストーリーに耳を澄まし、そこから後に続く人々が「学ぶ」ことがどうやって可能になるのか。 🍋:そういう気の長い向き合い方をどうやってできるんだろう。除外したり、断罪したり、一瞬で終わらせようとするやり方ばかりが目に付く状況になっているように思う。 🍑:罪人がこねて焼いたパンを口の中に入れて飲み込むっていうことは、やっぱり私にとって象徴的なことだったんだよね。もしかしたら言葉ではない贖罪のプロセスの方がもっとスッと入ってきたりするのかな、って。 🍋:受刑者の方がパンを焼くのは、被害を受けた方本人に向けてだけでなくて、その方も含まれる社会全般に向けて行う償いということだよね。 🌵:でもそういったことはますます見えてこないし、そもそもパンを食べる機会もない。 🍑:そうだし、パンを食べられない私たちの問題でもある。 🍋:ダナ・ハラウェイの本(*8)にも刑務所の話があって、犬を訓練するためのプログラムを囚人たちにさせるんだけど、彼らがしっかり躾けて試験に合格できれば、犬たちは一般的社会にいく。ペットになったり、セラピー犬になったり。犬を鍛えることが自分たちの更生プロセスと一緒になっている。でも、試験に合格できなかった犬たちは殺されてしまうんだって。 *8: ダナ・ハラウェイ著、高橋さきの訳『犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクス』(青土社、2013) 🍑:えっ、普通の犬としての生は選べないの? 🍋:もともと、野良犬だったりして、事情があって殺処分を予定されていて。その犬たちを囚人たちが更生させる、ということみたい。 🌵:すごい話だな...。  🍑:囚人たちは犬たちに感情移入してしまうかもしれない。社会の役に立たなければ殺される...。なんともいえない気持ちになった。最初は良い話なのかと思って聞いてたけど。 🌵:でも今の話を聞いていて、非対称性を超えてお互いが内包された関係性とか、自身がコントロールできないところに変容だったりコミュニケーションを紡いでいくみたいなところは「新水晶宮」とも決して離れた実践ではないようにも思ったりしたよ...。ここまで3時間ほど経っているので(笑)、このあたりで今回はおひらきということで、二人ともありがとうございました! (2020年7月18日zoomで収録後、加筆修正) 百瀬文アーティスト。1988年生まれ。近年の主な個展に「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U」(EFAG、2019年)、「サンプルボイス」(横浜美術館アートギャラリー1、2014年)、主なグループ展に「彼女たちは歌う」(東京藝術大学 美術館陳列館、2020年)、「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)、「アーティスト・ファイル2015 隣の部屋——日本と韓国の作家たち」(国立新美術館、韓国国立現代美術館、2015-16年)など。ayamomose.com 遠藤麻衣俳優、アーティスト。1984年生まれ。近年の主な展覧会に「彼女たちは歌う」(東京藝術大学 美術館陳列館、2020)、「When It Waxes and Wanes」(VBKÖ, ウィーン、2020)、「アイ・ア ム・ノット・フェミニスト!」(ゲーテ・インスティトゥート東京、2017)、「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」(東京都現 代美術館、2016)など。近年の主な出演に、パフォーマーとして小林勇輝「Stilllive」(ゲーテ・インスティトゥート東京、2019)、俳優として指輪ホテル「バタイユのバスローブ」(naebono art studio, 札幌、BUoY, 東京、2019)など。maiendo.net

#News

SCREENING at Vera List Center for Art and Politics 🔮
#News We are happy to announce that our collaborative video work with artist Stephanie Misa and James Clar "Diamond Princess Titanic" (2020) will be screened on November 16 at Vera List Center for Art and Politics in NY 🌸 Seminar 3: Bring Forth the Body: Biopower, Protocol, and PlaguesDate: Nov 16, 2020Time: 6:00 pm–8:00 pm (GMT-4) https://veralistcenter.org/events/seminar-3-bring-forth-the-body-biopower-protocol-and-plagues/?fbclid=IwAR2f--VUeEkS90A1qDGOjNEDgx_usL5QGRE7hjmKD3HivIx8YO2XMRYtXnk The pandemic that continues to ravage the planet’s human communities does so along largely predictable lines. Those who are made most vulnerable by ongoing processes of racialized extraction and its reliance on the twinned violences of force and neglect suffer disproportionately, while our engineered geographies of deprivation redouble as sites of concentrated misery. The overwhelming evidence of the stratified impact of our contagion has resulted in early soundbites about “equal opportunity infection,” and instead once again clarified the brute fact that the impulsion to live and let die is always and everywhere protocological.   Put differently, the virus has done the work of materializing biopolitical logics by literalizing the imperial security protocol of the latently weaponized body. Our cells are the sleeper agents now, and the multiple determined protocols of the Imperial War Machine are kicking into gear accordingly. For, even as the federal government fails to contain this particular virus, it has doubled down relentlessly on the social wars – or, to quote Hortense Spillers “the protocols of search and destroy – that are the disaster’s requisite preexisting conditions. And, in doing so, states, capital, and their allies have catalyzed an intensified collective refusal of their death-dealing.  And at the center of all this: the body and the myriad things that it can do.  Convened by Joshua Scannell, School of Media Studies, Schools of Public Engagement, The New School, the third event in the As for Protocols seminar series explores the relationships between the body, race, and technology, especially as they play out during a pandemic, with its own set of protocols, and when so much is laid waste and so much else is up for grabs. Speakers include Anthony Ryan Hatch, sociologist and Associate Professor and Chair of the Science in Society Program at Wesleyan University; Ronak K. Kapadia, Associate Professor of Gender and Women’s Studies at the University of Illinois at Chicago; and Jasbir Puar, theorist and Professor and Graduate Director of Women’s and Gender Studies at Rutgers University. Artists Stephanie Misa and James Clar screen a new video that considers biopolitics and protocols of cruise ships, as they played out in the early days of the pandemic.

#Editorial

#Learning

抄訳: ジャスビル・K・プア「Queer Times, Queer Assemblages」(2005)
#Editorial, #Learning 根来美和と丸山美佳による現代の芸術実践に重要な論文やテキストの勉強・研究・翻訳プロジェクトの第三弾は、前回のキム・ヒョンジン「History Has Failed Us, but No Matter」でも引用されていた、クィア理論家であるジャスビル・K・プアの「Queer Times, Queer Assemblages」(『Social Text』 Vol. 23、84-85頁、2005年)の抄訳です。 🌟ジャスビル・K・プアについて🌟 米国拠点のクィア理論家で、現在ラトガース大学ウィメンズ・ジェンダースタディーズの教授で大学院教務部長。南アジア系ディアスポラの生産や、テロリズム、監視、生/死政治等の研究で知られる。『Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times』(2007年)において、「ホモナショナリズム(Homonationalism)」という概念を提示することで(西欧的)LGBTQグループや彼らが主張する権利が国家政策やナショナリスト的イデオロギーと結びついていることを指摘した。そこからサラ・ R・ファリスの「フェモナショナリズム(Femonationalism)」(2012年)など、欧米の移民政策におけるフェミニズムとナショナリズムの結びつきを指摘する研究が発展してきている。 2005年に発表された本論文「Queer Times, Queer Assemblages」は、対テロ戦争における人種差別、ナショナリズム、愛国主義、テロリズムのアッサンブラージュがすでに「クィア」であることを指摘しながら、西欧的セクシュアルマイノリティ言説と結びついたナショナリズムと、国家的な規範を生み出すためにいかにテロリストの肉体が生み出されているのかを明らかにする。また、クィア理論やセクシュアリティ研究における、アイデンティティを中心としたインターセクショナリティのアプローチを批判し、そこからドゥルーズ=ガタリ的な「アッサンブラージュ」への移行を主張する。 🌟論文目次🌟米国例外主義におけるクィア・ナラティブテロリストの肉体性情動的クィアネス  確かにクィア的な時間はある。対テロ戦争とは不朽のモダニズムのパラダイム(文明化するテクノロジー、オリエンタリズム、ゼノフォビア、武装化、国境にまつわる不安)とポストモダニズムの爆発(自爆テロ犯、生体認証による監視戦略、新興した肉体性、行き過ぎた反テロリズム)の配列に接続されたアッサンブラージュである。諸身体、欲望、快楽、接触性、リズム、共鳴、質感、死、病的な状態、拷問、苦痛、感覚、罰を強調しながら私たちの死政治的な現在-未来は、クィア理論とセクシュアリティ研究が言及すべきことを再明確化することを急務とみなしている。その言及すべきこととは、帝国のメタ理論と「本当のポリティクス」についてであり、ジョーン・スコットが述べたように、「ポリティクスの本当の務め」として理解されているものである。*1 ナショナリストで愛国的なテロリストの形成と彼らの人種化され倒錯したセククシュアリティとジェンダーの違和感の絡み合った形態を詳しく論じるために、クィア的な時間は思考、分析、創造性、表現のよりクィアなモダリティ(様式)を要求する。対テロ戦争とそれに付随する人種差別、ナショナリズム、愛国心、およびテロリズムのアッサンブラージュについてはどうだろうか、すでに十分にクィアであるだろうか? 多様なテロリストの肉体性におけるクィアネス(queerness)の検討を通して、クィアネスが否定されたり認められたりしないままであっても、あるいはその場合は特に、クィアネスは増殖すると私は主張する。これらのタイプの検討を取り上げるのは、反テロ対策の言説は本質的にジェンダー化、人種化、性的化され、国家的なものにされていると主張するためだけでなく、クィアなテロリストの肉体性に反しながらもそれを通して結束する規範的愛国者の諸身体の生産を明らかにするためだ。以下に続く思弁的で探索的な試みにおいて、私はこの重なり合いの3つの兆候を前景化する。まず、クィアネスの論説を検討するが、そこでは特にイスラム教徒のセクシュアリティを通して、クィアな肉体性の問題有りきの概念化が米国例外主義の議論の為に繰り返されている。次に、自爆テロ犯におけるテロリストの身体を、空間的、一時的、肉体的な収束、内破、再配置を支持するクィアなアッサンブラージュとして再明確化する。それは、性的アイデンティティとしてのクィアネス(あるいは反アイデンティティ)、言い換えれば、インターセクショナルでアイデンティティ主義のパラダイムに抵抗するアッサンブラージュである。アッサンブラージュとしてのクィアネスは [アイデンティティの]発掘作業から遠ざかり、クィアとクィアではない主体間の二項対立を無効化する。そして、独占的に異議を唱えたり、抵抗、代替としてクィアネスを保持する代わりに(重要なことにすべてのクィアネスがそうであり、そうしている)、偶発性と支配的な形成との共犯を強調する。最後に、アッサンブラージュとしてクィアネスに焦点を当てることは、認識論と並行して存在論、つまり表象的経済における情動へ注意を向けさせると主張する。その中で身体は、例えばターバンを巻いたシク教テロリストのように、相互に浸透して渦を巻くとともに、お互いに情動を伝達し合う。情動と存在論を通じて、特にターバンを巻いたシク教徒のテロリストは、クィアアッサンブラージュとして、南アジアのクィアディアスポラの地形を再形成していると主張する。 米国例外主義におけるクィア・ナラティブ 一つの批評として、「クィア・リベラリズム」はポスト構造主義者の反アイデンティティあるいはトランスアイデンティティ批評として、国家の主体形成のリベラルな要求とクィアネスの抜本的な信念との全く想定外とも言えない不安定な調和を認めている。我々は異なるものの重なり合ういくつかのクィア・リベラルな主体の系譜をまとめることができる。[...] 消費的かつ司法的系統の両者が国家の威信を強く反映している一方で、クィア・リベラリズムが存在している一つの簡明な方法とは、性に関する他者化の実践を媒介した米国ナショナリズムの演出を通してであると私は主張する。性の他者化の実践は、中東におけるセクシュアリティのイスラム恐怖症的構築と比較するとアメリカにおけるクィアネスのアイデンティティを無意識に例外化している。これは人種差別や保守的なレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア、クエスチョニング(LGBTQ)の言説における構成的排除の批評ではない。むしろ私が対立しているのは、インターセクショナルな分析に傾倒しているにも関わらず、(もしかするとだからこそ)クィアの理論化が決まって米国国家の規律的利益を再生産するような知識への認識論的意志を尋問することに失敗しているという問題である。[...]しかし今私たちが直面しているのは、規範的そして非規範的(クィアな)諸身体を通した性に関する例外主義の生産である。つまりクィアネスが、性の近代化のレトリックを通してアメリカの国家的セクシュアリティの性的な例外的体系として差し出されているのだ。そのレトリックはホモフォビックな倒錯者として他者を酷評することと、「寛容」だが性的、人種的にジェンダー化された標準とされる帝国主義者の中心を構築することを同時に可能とする。 クィア規範としてのホワイトネスの明確化と生産、そして米国における帝国主義者の拡大を無言に容認することによって、クィアネスはナショナリストの外交政策の中に組み込まれている米国例外主義と結託しているのだ。[...] アブグレイブ刑務所における「性的虐待のスキャンダル」に反応した意見の多数の例に、このクィア例外主義の最もはっきりとした生産を見受けることができるだろう。アブグレイブの武勇談が示しているのは、米国例外主義の地政学生産にとってセクシュアリティが非常に重要であることと同時に、この重要な役割にも関わらず、あるいはだからこそ、対テロ戦争にまつわる討論においてセクシュアリティは理論化されず、過小評価され、しばしば避けられる要素であるということだ。[...] まさにこのアラブ/イスラム教徒/イスラム教の(どれがというのは重要だろうか?)文化的差異に対する非教養な概念こそを、ある文化に特有に「効果的」だと彼らが信じる虐待技術のマトリックスを作るために軍事諜報機関は利用しているのである。したがってここで私たちが直面しているものは、他の資料の中から人類学研究「アラブの精神」を使用したペンタゴンの策略と進歩的クィアから発じた言説と並走するものある。[...] 「イスラム教は謙虚さと性のプライバシーに重きを置く。他のアラブ世界とほとんど同じようにイラクはマスキュリ二ティ (男性らしさ)の概念を重要視する。お互いの前でマスターベーションしたり同性あるいはホモセクシュアルな性行為を擬似するよう男性に強要したりすることは、多くのイスラム教徒の目には倒錯そして嗜虐として映るのだ。」*6 [イスラム教徒のレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・インターセックス・クィア・クエスチョニング(LGBTQ)のための国際団体] Al-Fatihaによる声明に異議を唱えたい。なぜなら彼らは「イスラム教徒のセクシュアリティ」のオリエンタリスト的概念に起因するその他多くの声明を支持するからだ。その概念は性の抑圧を前面に押し出し、規範的マスキュリニティの解釈を擁護した。すなわち、男性的なナショナリズムのようなものを辱め生産しながら、女性化された受け身の立場は帰化されるのである。[...] 私はAl-Fatihaなどのイスラム教徒やアラブの集団が今の時代に行使しなければならないポジショナリティの複雑な動きの連続を強調したい。そこでは文化というレンズを通した「イスラム教徒のセクシュアリティ」の弁明はたやすく人種差別的課題へ接収されている。*7 [...] ホモセクシュアリティと「謙虚さ」の観念に相対するイスラム教徒の性の抑制に関する均質的概念を強化することで、対照的にそのような性の束縛から自由な場所として米国を再定義するのだ。Al-Fatihaがイスラム教とセクシュアリティの問題をより複雑に仕立て上げていたならば、マスメディアが待ち望んでいたオリエンタリストの共鳴を逃しただけでなくーー共鳴しない限りメディアの注目を引く方法はないに等しいのだがーー愛国的政策の致命的な人種差別的影響、つまり監視、国外追放、拘留、登記、先制的移住を導き、人々を危険に晒し得たのだ。  [...] 私たちは「タブーとしてのホモセクシュアリティ」の生産がいかに西洋の眼差しとの邂逅の歴史の中に位置付けられるかを検討しなければならない。かつてフーコーのアルス・エロティカやサイードの脱構築な功績において、オリエントは付随するアイデンティティや連鎖を伴わない根源の釈放、自由な罪や行為の場所として考えられたものだが、今や抑圧や倒錯の空間として象徴化され、自由の場は西洋へと移動させられてきた。 [...] パトリック・ムーアが派生させた、行為から最終目的としてのアイデンティティ[への移行]は、(米国アメリカのホモセクシュアリティの中心で行為-アイデンティティの関係の混同を軽視しながら)西洋をアイデンティティの空間として描写する一方で、どうやら彼によると「イスラム教のホモセクシュアリティとの問題のある関係性」のために、アラブ世界は行為の退化した領域へと追放される。[...] さらに、無批判かつ文字通りにイスラム教の性の抑圧の概念を受け入れる中で、我々はフーコーが「抑圧仮説」と名付けたものの痛烈な再演を目の当たりにしている。つまり、セクシュアリティに関する議論や開放性の不足は、失われた性欲の抑圧的で検閲に突き動かされるような装置を反映しているという仮説である。*9 サイードのオリエンタリズムにおいて、オリエントに見られる無法のセックスはオクシデントが自ら行使する抑圧仮説から解放されるために探し求められたものであったのに対し、アブグレイブの場合には対照的にアラブの受刑者たちの抑圧こそが、アメリカの刑務所看守にはびこる性欲過剰を消し去るために強調されているのである。 [...] 相互に排他的で不連続なカテゴリーとして「ホモセクシュアリティ」や「イスラム教徒」をしつこく半狂乱に製造することで、クィアネスは「テロリスト」の諸身体のセクシュアリティの不寛容な形態に対抗して作られた米国の例外的性規範の記述に結託している。さらに、人種をセクシュアリティから永続的に分離させることによって、クィア例外主義は米国ナショナリズムを縫合するように働くーー(性的に抑圧されているか倒錯かあるいはその両方と推定される)テロリストの人種と(白人でジェンダー規範に沿っていると推定される)国家的クィアのセクシュアリティ。この二つは交わろうとしない。 テロリストの肉体性[...]  [ヴァギナル・デイヴィスの] テロリストドラァグについてのムニョスの描写 [性的な魅力のある女性らしさを拒否し「地べたを這うゲリラ的表象戦略」を支持することで、米国で最も危険視される市民となること、そしてそれは人種、ジェンダー、セクシュアリティーにまつわる米国内でのテロをほのめかしていることの二段階において、デイビスのドラァグはテロリストである(*ここでプアは、9・11以降の反テロリズムの情勢において、ゲリラとテロリストが全く異なる人種的誘意性を持つことに注意する必要があると述べている)]は、クィアとテロ間の歴史的な収斂状態を指し示すーーホモセクシュアルは国家の反逆者、スパイや二重諜報員であり、マッカーシー時代には共産主義と結びつけて考えられ、自爆テロ犯と同様に死を引き起こし欲望する者であった(両者ともに常にすでに死にゆく者として考えられ、ホモセクシュアルの場合はAIDSの感染拡大によってそうされた)。[....] 対テロ戦争を通して最も急速に拡散され、グローバル化したマスキュリニティの描写はテロリストのマスキュリニティである。つまり、破綻し倒錯し、これらの骨抜きにされた身体は誤作動の基準点として常にフェミニニティ(女性らしさ)を持ち、心身のあらゆる種類の病理学に意味論的に結びつけられているーーつまりホモセクシュアリティ、近親相姦、ペドフィリア、狂気、疾病である。[...] ウイルスのように広がっていく爆発的なテロリスト・ネットワークの集まりにより、それらを切り詰めようとする努力にもかかわらずその影響力は絶えず再生し、テロリストは計り知れない未知のヒステリックな怪物であると同時に、それでも米国の諜報安全システムの並外れた能力だけが鎮めることができるものである。この未知の怪物は偶然の傍観者や寄生虫ではない。国家はこのあふれんばかりの不快感をこれらの諸身体の理解不可能性と同化させ、理解不可能物の目録を作ることで新しい規範性と例外主義を情動的に生み出すのだ。そこで、私たちはクィアテロリストを発掘したり、テロリストをクィアしたりする実践に従事しなければならないわけではない。むしろ、クィアネスは常にテロリストを名付けるプロジェクトにすでに組み込まれているのであり、倒錯、逸脱、奇形の同時的参入なしに、テロリストはそういうものとして現れることはない。第一に研究主題をクィアするよりも、研究主題をすべてのそのクイアネスに登場するよう奨励する戦略は、方法主導の一時性と並行して主題主導の一時性を提供する。クィアされる主題と、主題の中にすでに存在する(それゆえそういうものとして主題を消散する)クィアネスのこの差異を試してみると、ビーイング(存在すること)の一時性と常にビカミング(なること)の一時性の両方が可能になる。 実体がないようにクィアするアイデンティティは存在せず、むしろあらゆる方向から現れてくるクィアネスは、その抵抗を叫びながらインターセクショナリティからアッサンブラージュへ移行することを私に提案する。 分散しているが相互に関与した一連のネットワークとしてのドゥルーズ的アッサンブラージュは、言表と分解、因果関係と効果を一緒に引き出す。 人種、階級、性別、セクシュアリティ、国家、年齢、宗教などの構成要素が分離可能な分析方法であり、それゆえ分解することが可能であると推定するアイデンティティのインターセクショナルのモデルとは対照的に、アッサンブラージュは直線性、一貫性、永続性に反した時間、空間、身体を融合し消散させるような織り交ぜられた力により一層調和している。インターセクショナリティは空間と時間にわたってアイデンティティを知り、名付け、それゆえ安定化することを要求し、それと同一化することの虚構的でパフォーマティブな側面を否定する進歩の流れを生成する。つまり、あなたはアイデンティティになる、そうその通り。しかし同時にその永遠性はどんな場所であっても継ぎ目のない安定したアイデンティティの虚構性を強固にするように機能する。多様性を管理する道具でありリベラルな多文化主義のマントラとして、インターセクショナリティは国の規律装置(国勢調査、人口統計学、人種プロファイリング、監視)と共犯する。その装置において、「差異」は大雑把なアイデンティティを単に陳腐なマス目へと入れようとする構造的な容器に収められるのだ。視覚的で聴覚的、判読可能であったり、触れることができたりする明らかなアイデンティティまたはモダリティとしてクィアネスを置き換えることにより、アッサンブラージュは出来事、空間性、および肉体性に宿る強度、感情、エネルギー、情動、質感の感受を可能にする。アッサンブラージュが感情、触覚、存在論、情動、および情報を強調する一方で、インターセクショナリティは命名、視覚性、認識論、表象、および意味を特権化する。最も重要なのは、現代の政治領域におけるナショナリズムの死の機械的側面の高まりーーアキーユ・ンベンベによって「死政治」と描写された感覚的および構造上の統治の高まりーーを考慮すると、アッサンブラージュは帝国を守る米国例外主義の流れに反する働きをする。国家的監視と管理の慣行を伝達する人種と性分類法の普遍性に挑み、対テロ戦争における「私たちv.s彼ら」を混乱させるのだ。 [...] ンベンベは生権力から死政治への移行(生の服従から死の権力)を論じ、(西洋の)政治的合理性の概念に依存している統治権の歴史的根拠はより正確な枠組みを要請すると指摘する。つまり、生と死の枠組みである。*15 [...] この種のテロリストのクィアなモダリティの考えを巡らせる際、奇妙なパスティーシュに気づく。金属と肉を通して共に機械化された身体、つまり有機物と無機物のアッサンブラージュ。自己の死でも他者の死でもなく、同時に両者の死。抵抗と自己保存の究極の形式としての自己消滅。この身体は不可避の崩壊を通じて対立するものの和解を強要するーー矛盾の倒錯した住処である。 HIVに苦しむ同性愛者のように、ビカミングの最中であっても常にすでに死にかけている姿として、自爆テロ犯は彼/彼女の地位を性的倒錯者として縫合する。*16 ンベンベはまた、自爆テロ犯のクィアビカミングーー「弾道学」の肉体的体験ーーを指摘している。 自爆テロ犯の身体に縛り付けられたダイナマイトは単なる付属物ではない。 身体に伴った武器の「親密さ」は、インターセクショナルなアイデンティティの権限にある身体について仮定されている空間的完全性(一貫性と具体性)と個人性を再定位する。そしてその代わりに、私たちは身体-兵器を持つ。 身体の存在論的情動によってクィア的にその身体は新たなビカミングな身体にする: 殉教の候補者は、すぐに爆発を引き起こす兵器を隠す仮面へと彼/彼女の身体を変容させる。[...] その身体は単純に兵器を隠すわけではない。身体は比喩的な意味で変容させられたわけではなく、まさに弾丸という意味で兵器に変容させられたのである。*17 [...] その身体-兵器は隠喩を演じていたわけではなく、意味と認識論の領域にいたわけではない。むしろ私たちに存在論的に改めて問いを強いるのだーー弾丸となった身体はどんな種類の情報を伝えているのか? ビカミングの真っ只中にあるこれらの諸身体は内面と外面をぼかし、感覚を通じて変容に感染し、残響と振動によって知識を共鳴させる。 共鳴はクィアの一時性であり、 諸ビーイング間およびその最中の情動的情報の中継における、反射、反復、反響、そして回帰(ただし、模倣のように違いを伴って)の連続である。そして現在に突入する未来の波を生み出すのだ。『サバルタンは語ることができるか』において多様な解釈が可能な自殺のテクストに織り込まれた性質へ私たちの注意を向けるように予見していたガヤトリ・スピヴァクは、彼女の最新の反芻の中で、情動的情報の中継としての自殺テロはサバルタンにとっての表現とコミュニケーションのモダリティであると私たちに思い出させる。 クィアアッサンブラージューー存在やアイデンティティの「クィアする」こととは異なるものーーとして、人種とセクシュアリティは非永続性と自爆テロ犯のはかなさによって脱自然化される。つまり、 つかの間のアイデンティティはその溶解を通じて逆再生されたのだ。自己の他者への、そして他者の自己へのこの溶解は、対テロ戦争における自己および他者の絶対的な痕跡を消すだけでなく、善と悪の規定を編成するマニ教的合理性の全体的な秩序に対する体系的な抗議を生み出す。自爆テロ犯は「他に取る手段がないときには身体に刻まれたメッセージ」を伝えることで、合理性を超越あるいは主張したり、非合理性の境界を認めたりはしない。 むしろ、彼らはそのような区別がはびこる欠陥した一時的、空間的、および存在論的な推定を前景化するのだ。 [...] ンベンベにとっては、身体的境界線の溶解としてのセクシュアリティは、死の弾道的な出来事を通して詳しく説明されている一方で、女性自爆テロ犯にとってはセクシュアリティは常に事前に公表されている。つまり、マニキュアをした小さな手や神秘的な美しさ(「暴力と混ざった美」)、そして彼女の顔と体の特徴は、男性の自爆テロ犯には要求されない方法で意見が述べられる。すなわち、女性自爆テロ犯の行為の政治的重要性は、彼女の理性を欠いた感情的で精神的苦痛と思われいるものについての妄想から、あるいはその内部へとジェンダー化されているのだ。*19 女性自爆テロ犯は、テロリズムは家父長制から直接的に生まれたものであり女性は本質的に平和を示しているというありきたりな命題を混乱させる。しかし、観察者が女性はジェンダーやセクシュアリティの伝統的な構成から追い出さたりまたは忌避されると(レズビアンであると非難されることが多い)暴力に向かいやすい傾向があると宣言した場合、この理論的根拠は書き直される。これらの散漫的で身体的なアイデンティティの指標は、インターセクショナリティの永続的な可能性を反映しているがーーこのことを完全に後回しにすることはできないーー、その限界も反映しているのだ。 クィアネスがいかに自爆テロ犯を構成しているかについては、ンベンベとスピヴァクそれぞれが暗に示している。性のアイデンティティから断絶し、代わりに一時的かつ空間的、肉体的分裂を示すことで、クィアネスは身体が象徴的に、教育的に、そしてパフォーマティヴに機能するために必要不可欠なものとしてその内部に装備され、そしてその通り機能する。「適切な」身体的実践の規範的慣習や健常な身体の尊厳に背きながら、諸身体の境界線の離散は、ジェンダーやセクシュアリティ、人種の規範的慣習に対して全く混沌とした挑戦を強いる。であればここから、文化的、民族的そして宗教的にナショナリスト、原理主義者、家父長制主義者、そしてしばしば同性愛恐怖症でさえあると典型的に解釈されるこれらテロリストの身体は、クィアな身体であると再解釈することが可能である。このクィア的再解釈を政治的議論に持ち込むことを過小評価すべきではない。「味方か敵か」という対テロ戦争のレトリックの動乱の中で、アッサンブラージュのクィア的実践は、監視、制御、追放、駆逐など国家的慣行の目を晦まし両者を掻き乱すことが出来る。仮に国家と市民権が異性愛規範の特権的な暗黙の了解であると考慮するならば、そのように考慮すべきとされているように、これら非例外的テロリストの諸身体は非異性愛規範である。異性愛規範は(白人)人種と(中流から上流)階級の特権に関することであると同様に、性のアイデンティティ、同一化、そして行為に関することでもあるというキャシー・コーエンによる主張*20 に従うと、これらの諸身体を性的倒錯というスポットライトの中に放り込むことで、(アメリカの帝国主義者による)国家も同様に精神的かつ物質的な同一化における非常に重要な軸として現れる。ホモ-ヘテロ分離における国家の倒錯的存在を埋め立てることを通して、クィアネスの方針は本質的に反ナショナリストである。情動的肉体のクィアネス、それは性、ジェンダー、性的対象の選択を超えた規範化し抵抗する身体的実践を前景化するクィアネスであり、それに注意を向けると、クィアネスは領域やベクトル、地帯として拡大し、散発的にではなく常にナショナリズムとその権限内の人種を説明づけるものであり、クィアの表象とクィアの情動性との関係性を頑なに解き放つべきものなのだ。 情動的クィアネス[...] テロリストによく似た身体は、クィアネスの判読し難く比較しようのない情動を暗に示すーー諸身体はある意味で存在論と情動の領域つまり触覚性、知覚性へと共に機械化され、アイデンティティや視覚性、可視性を超えて非凡である。(...) マイケル・タウシグの「触覚的に知る」*25 という観念を再考しつつ、メイ・ジョセフは以下のように雄弁に主張している。 征服や文化的接触を複数経験したことによってバラバラに分解され突然変異させられてきた社会的知識の形態をもつ文化にとって、触覚的な実践は判読が難しく、さらに複数の意味を包含している。そのような交流はしばしば非公式の出来事であり、文化的知識が引用や転送、再盗用されることを通して日常生活に備わっているのである。その感覚は質感を獲得する。*26 「視覚の論理を組織立てることを超えて感覚に浸り、歴史という看板として記憶を追いやる」*27 ものとして触覚的知識は、人種化されたテロリストによく似た諸身体に危険や恐怖、メランコリアを規範化していく痕跡を装備する。ターバン着用者にとって、儀式や感覚は身体の一部に付随しているーー毎週糊付けし、数ヤードのキメの粗い布地を柔らかくするために引き伸ばし、そして所定の位置に巻きピン留めする際の匂いーーこれは以前とは定性的に異なるものになっていく間の経験なのである。クィア的に情動的で触覚的な領域を通して、覆い隠すことがもう一つのフェミニニティを示すものと判断されてきたように、シグ教徒のパグリあるいはターバンは(テロリストの)マスキュリニティの銘刻を獲得する。ターバンを巻いた男性は、恒久に見当違いの伝統や(家父長制であるにもかかわらず)抵抗する反同化主義者の態度を示す単なる印ではもはやなくなり、今や二度と文明化することのない怪物の歴史と空間に居住する者なのである。 [...] ターバンの分類学、その特定の地域的、場所的な系譜学、時空間における彼らの位置づけ、そして彼らの特異性と複数性にもかかわらず、モノリスとしてのターバンは国家と国家の安全をひどく困惑させ妨害する。[...] ターバンが悪辣に引っ掛かれたり髪の毛を引っ張られある時には切られてさえしまうようなヘイトクライムが次から次へと理由なく起こるのではない。このような暴力の親密性を誇張することなどできない。この攻撃は二重の去勢として機能しているのだ。つまり、髪の毛の除去は規範的家父長制度のマスキュリ二ティによる、そしてそれへの服従を必要としながら、脱がせることは(大抵の場合)男性の(シク教徒かイスラム教徒の)代表に対する誹謗である。ターバンは、規律され得るものと規律に反すべきものとの間に絶えず陥る状況を暗に提示しているのだ。その結果、時に死が伴う。  シク教徒といえば、1990年代初頭にアメリカ北西部とカリフォルニアへの最初の移住者が「ヒンドゥー」と誤って呼ばれ、今ではイスラム教徒であると間違われている。この誤解されたアイデンティティが9・11以降のヘイトクライムの主要な原因であるという仮説が保守的また進歩的党派に似たような者たちによって取り入れられてきている。 [...] 誤解されたアイデンティティの観念は複数の前提に依拠している。すなわち、観察者はシク教徒のターバンとイスラム教徒のそれとの見た目の違いを見分けることに開放的また積極的であること、またリベラルな教育によって普及されたような多文化主義の理想は差異の中に存在する差異は重要であると認識しているという前提である。誤解されたアイデンティティに注目することは、ターバンの情動的経験よりも視覚的経験を支持し、その経験はオリエンタリズムの歴史的形成を歓迎し、恐れ、憎悪、嫌悪を誘発する。触覚的経済は認識論的にではなくむしろ存在論的に知ることを再主張し、視覚を通して判読できると考えられているものを超えて、触れること、質感、感覚、嗅覚、感情、そして情動を強調する。[...] 視覚性、情動、女性化された立場と身体的無機性のアッサンブラージュこそがヘイトクライムの遂行におけるクィア形成を説明づける。 ターバンを巻いたテロリストのクィア・アッサンブラージュは、クィアな南アジアのディアスポラの中にあるテロリストの肉体の多産化と陰影を語っている。その諸身体はクィアであると再主張されるべきなのだ。南アジアのクィアなディアスポラは(米国の)少数派例外主義の形態を模倣していると言えるかもしれない。すなわちクィアを、ナショナリスト的衝動がない模範的なあるいはゆれ動く場だと位置付け、クィアネスをディアスポラのもっとも逸脱的な潜在性に匹敵すると捉える例外主義の形態である。しかし、いまや偏愛化されたデシのドラァグクイーンとターバンを巻いた者、でなければシク教徒かイスラム教徒のテロリストの間の緊張ーーそして重なり合いーーはこの例外主義を和らげる。[...] シク教徒のディアスポラに関する研究を引用しながら、ブライアン・ケイス・アクセルは「祖国がディアスポラを生み出すと捉えるのではなく、ディアスポラが祖国なるものを生み出していると考える方が生産的なのではないか」と主張している。28彼は、祖国は「ある場所としてではなくむしろ情動的で一時的な過程であると理解されるべき」だと提案する。*29 [...] 「異なる諸身体や肉体のイメージ、セクシュアリティやジェンダー、暴力の歴史的形成」は祖国という場所と同じくらい深くディアスポラな想像性を構成するとしながら、アクセルの公式を生産的に再考することで、国家とその地勢的配置の惰性をさらにクィアすることが可能だ。クィアなディアスポラの観念はディアスポラを再整備し、祖先の祖国を共有することとは異なる、あるいはそれを超えた繋がりを説明づける。つまり、束の間のあいだ故郷から離れることで、ディアスポラの親和的でカタルシスな存在の別のあり方が可能になり、そしてアクセル(そしてンベンべ)にとっては、その親和的な力を見せることで第一に身体とそれに取り憑くトラウマの別のあり方を可能とする。さらに、起源の場所、つまり、ディアスポラを束縛する二つの言葉の一つである国家を不安定にすることは、実際のところ祖国からディアスポラという最終目的を傷つけ、親類関係、所属、そして祖国についてのクィアなナラティブを可能にしながら、ディアスポラの権限から自動的に生まれた祖先の連続性を歪める。それゆえ、場所の感覚は距離を通してエネルギーを注入された多方面にわたる強度の一つである。すなわちアクセルにとってディアスポラとは人口統計学的な地勢的場所を表象するだけでなく、根源的に歴史や記憶、あるいはトラウマをも通して表象されるものなのだ。それは、感覚、振動、共鳴、速度、フィードバックループ、そして回帰的な折り目と感情を通して結合するのであり、肉体性や情動性、私が追加するとすれば複数の偶発的な時間性を通して癒合する。つまり、アイデンティティを通してではなく、アッサンブラージュなのだ。 [...] ターバン、生殖器、肛門が集団的に男根の強要力を引き受けている。つまり、性的な侮辱は服従させるために剥き出された頭部と然もなくばプライドを脅かすような髪の毛の使用に始まり、慣習的な性の対象へと続く。とりわけ肛門への拷問はアナルセックスを装い、そうすることでホモセクシュアリティの観客を掻き立てようとする。ターバンを巻いた男性の身体は、今やターバンを剥がされ拷問される身体であり、効果的に宗教的に無力となり、国境への脅迫を繰り返すことは不可能になる。[...] 身体のクィアネスがいくつかの側面で確認されている点でこの[性的]暴力はパフォーマティヴである。第一に、国家と文化の生殖者として女性に注目する規範から離れ、生殖能力が男性テロリストの身体へクィア的に侵略している。第二に、その身体から生殖能力が象徴的に剥奪され、反国家的なセクシュアリティのクィア的領域へと駆り立てられる。つまり、一時性が再計画されるのだ。なぜなら、規範的で同族の親類関係の形は世代の継続性によって生じるという想定が破綻するからだ。[...] しかし第三に、ターバンを巻いたシク教徒の身体のクィア的形成と並んで、この身体はすでにクィアとして現れているのであり、それゆえに拷問は引用的な意味においてまさにそれを例示するクィアアッサンブラージュを実行しているのだ。アッサンブラージュは、この身体ーーシク教徒、男性、ターバン着用者、異性愛者だが倒錯している者ーーを閉じ込めるアイデンティティの指標を通してではなく、むしろ拷問されながらその身体が一時的、空間的な再配置を反復することによって可能になる。ここに倍増した時空間が存在する。なぜなら身体は規範的な(インドの)国家的美学のために改造されると同時に、それでいてその生殖機能は去勢されるために国家から投げ出されるからだ。空間的に国家の内部と外部両側に配置され、時間的には常に国家的かつその対立物の両方になっていきながら、アッサンブラージュは一時的で束の間ですらあり、そして新しく何かになっていく状態の最中にあってさえ、規範的なアイデンティティの指標に屈してしまうのだ。 [...] クィアな怪物とクィアなモダニティが混合するなかで、[ターバンを巻いた男性シク教徒とその他テロリストのアッサンブラージュのクィア的占有は]組織化した知的プロジェクトの内部で創造的に力強く、そして予期せぬ形で政治的な地勢を混乱させる。これらテロリストのアッサンブラージュは、首尾一貫したアイデンティティとクィアな反アイデンティティの物語さえも傷つけるような情報の流れ、エネルギーの強度、諸身体、そして実践の不協和音であり、多くのグローバルなLGBTQ組織に浸透するフーコー派の「行為からアイデンティティへ」の連続体、つまり西洋のモダニティの進化形としてアイデンティティーの極地を特権化する連続体を完全に迂回する。[...] アッサンブラージュを通してであろうがまだ知れぬ何か、あるいはそれどころか永遠に知ることのできないものであろうが、未来の空想的驚嘆へと切り開くことが最も強力な政治的かつ批評的戦略なのだ。 *1. Joan Scott, “Gender: A Useful Category of Historical Analysis,” in Gender and the Politics of History (New York: Columbia University Press, 1988), 28–52.*6. Joe Crea, “Gay Sex Used to Humiliate Iraqis,” Washington Blade, 7 May 2004.*7. Andrew Sullivan, “Daily Dish,” www.andrewsullivan.com (accessed 4 May 2004).*9. In the face of the centrality of Foucault’s History of Sexuality to the field of queer studies, it is somewhat baffling that some queer theorists have accepted at face value the discourse of Islamic sexual repression. That is not to imply that Foucault’s work should be transparently applied to other cultural and historical contexts, especially as he himself perpetuates a pernicious form of orientalism in his formulation of the ars erotica. Rather, Foucault’s insights deserve evaluation as a methodological hypothesis about discourse.*17. Mbembe, “Necropolitics,” 36.*25. Michael Taussig, Mimesis and Alterity (New York: Routledge, 1993).*26. May Joseph, “Old Routes, Mnemonic Traces,” UTS Review 6, no. 2 (2000): 46.*28. Brian Keith Axel, “The Diasporic Imaginary,” Public Culture 14 (2002): 426.*29. Ibid.

#Archive

#Conversation

展覧会「WHEN IT WAXES AND WANES」の報告動画🌙
#Archive, #Conversation 2020年2月にウィーンで企画したMultiple Spirits(マルスピ) の展覧会 「When It Waxes and Wanes」の丸山美佳と遠藤麻衣による報告動画を公開しました。コロナウィルスにより東京で開催予定だったイベントをオンラインに移行したものです。みなさま、どうぞ Stay safe and healthy で🌷

#Editorial

#Learning

抄訳: キム・ヒョンジン「History Has Failed Us, but No Matter」(2019)
#Editorial, #Learning 根来美和と丸山美佳による現代の芸術実践に重要な論文やテキストの勉強・研究・翻訳プロジェクトの第二弾は、2019年ヴェネツィア・ビエンナーレ韓国館『History Has Failed Us, but No Matter*』の展覧会カタログからキュレーターのキム・ヒョンジンのテキスト「History Has Failed Us, but No Matter」(Mousse Publishing、2019年、6-23頁)の抄訳。 🌟概要と意図🌟ワルター・D・ミノーロらのデコロニアル理論とジャスビル・K・プアらのクィア理論を援用した本テキストは、あくまで展覧会という実践の根拠のためのテキストであり、言説として完成したものではない。東アジアの伝統と近代性の複雑性、そしてその複雑性のなかに生きる主体性についての問いを投げかけるが、テキストでは最後まで回答されることはなく、むしろこれらの理論を咀嚼できていない粗が目立つテキストであると言っていい。しかしその回答は、ナム・ファヨン、サイレン・ウニョン・チョン、ジェーン・ジン・カイセンによる映像インスタレーションの有機的な実践として表現されていたといえる。ジェンダーと伝統を扱う三作家それぞれのアプローチを共鳴させ、東アジアの文脈から近代の神話を撹乱させる実践を身体から感じさせるような、身体的体験としての展示空間を見事に作り出していた。そのため、作品と展覧会を補完するテキストとして「キュラトリアル」な説得力はあるが、それゆえにカタログテキストという範疇を超えることはない。 しかし、なぜ私たちはこのテキストを重要だと思うのか。それは、いまある理論をいかに実践に繋げるかというキュレーターの問いと大きな意味での東アジアの課題を、自身がそこに生きて経験する環境、そして知識が生産される場所として受け取り、キュレーターとしての彼女なりに正面から向き合っているからであるーー少なくとも私たちはそう思ったし、同時に私たちが直面している課題でもあると受け取ったからである。ヒョンジンは彼女より上の世代を批評的な視座で見つめ、現代的な理論を持ってくることで、世代間のギャップと前世代が抱えるパラドックスを語り、現代の世代、さらには未来の世代へと繋げようとしている。しかし、テキストーーそしてヒョンジン自身ーーは、オリエンタリズムとオクシデンタリズムの狭間を扱いつつもそこから抜け出せていないようにも見えるし、結局はパラドックスを抱え込むという「近代性=モダニティー」の持つ複雑性をも帯びている。 このような問いを東アジア出身のインスティテューションのキュレーターがやるということ、そしてその問いは彼女自身が欧米を拠点とするキュレーターとして東アジア表象の問題を扱わざるをえない現在進行形の問題から発生しているという背景も重要である。「さあ、いまある理論を使って私たちは何を考え、何をしていくのか? 」と問いかけ、同時にこれからの世代が理論をどう実践に活かしていくかという一つの例を、前のめりになりながらも大きな一歩として提示しているように思われる。 * タイトルの「History Has Failed Us, but No Matter」は訳すとしたら「歴史は私たちを失望させてきた、だがそれでも構わない」になるが、イ・ミンジンの小説 『パチンコ』の冒頭から来ている。在日韓国・朝鮮人ディアスポラを題材に、1910年から1989年の親子四世代と彼らが辿った時代や価値観、そして常に付きまとう母国喪失や人種差別への葛藤を巡る話であり、ヒョンジンが冒頭と脚注ではっきりと示しているように、西洋的近代化と異性愛家父長制度のあり方への疑問を投げかけた小説でもある。* 英語「modernity」に関しては、時代を示す場合は「近代」、デコロニアル理論的なコロニアリティーと表裏一体の概念に近い場合は「モダニティー」と訳している。*展覧会に関しては、根来・丸山の対談「ヴェニス・ビエンナーレ2019: 境界線との向き合い方 (東アジアのパビリオン編)」も参考に! History Has Failed Us, but No Matter 精神からではなく身体からこそ疑問が生じ返答を模索するのだ。思考を求めるのは精神ではなくむしろ身体であり、ファノンの黒人の身体が投げかける疑問は、その身体が黒人のものであるために生じるわけではなく、モダニティーの帝国的レトリックの中で黒人の諸身体が否定され続け、あるいはヒューマニティーを疑い続けてきているからなのである。*1ーーワルター・D・ミノーロ 触覚の経済(Tactile economies)は、認識論的に知ることよりも存在論的に知るということを再主張し、可視のものを通して判読可能と想定されるものに対して、接触、質感、感覚、匂い、感情、および情動を強調する。*2ーージャスビル・K・プア  この展覧会は東アジアにおける近代化の歴史をジェンダーのレンズと伝統という媒体を通して探求するものである。西洋への懐疑と同程度に異性愛男性という規範に疑問を呈する本展は、今日のアポリアに刻まれたモダニティーの様々な境界や境界線をめぐる議論でもある。とりわけ、アジアにおける近代化の過程の諸問題を批判的に理解するなかで、本展覧会はどのように伝統がモダニティーと密接な関係を持ちながら創案され生み出されたかを考察し、西洋的なモダニティーの規範を乗り越えるジェンダーの複雑性を知覚することで、アジアにおいて伝統が持つ解放への潜勢力を探求する。過去10年間、サイレン・ウニョン・チョンは韓国社会におけるクィア・パフォーマンスの系譜学を構築し、さらにクィアする* という概念とその美学を探求しながら、急速に失われてしまった韓国の伝統演劇の様式であり女性の演者のみから成るヨソン・グックを基に作品を制作している。ジェーン・ジン・カイセンは、コミュニティから追放された娘の物語であるバリ公主神話を、ディアスポラのメランコリアや西洋のコロニアルな近代(the West’s colonial-modern)のリミナリティーを脱する新たな可能性として読み解く。ナム・ファヨンは、20世紀の振付家・舞踊家チェ・スンヒの活動を探求する。スンヒは東アジアの舞踊に大志を抱き、絶えず近代的境界線と衝突した。国家という観念やイデオロギーと闘いながら、近代的考案を生み出したからである。第58回ヴェニス・ビエンナーレ韓国館の展覧会「History Has Failed Us, but No Matter」*3で展示されるこれら3名の作品において、西洋のモダニティーを追い求めてきた東アジアの近代化のモダリティ(様式)を丹念に探り、リサーチし、発見し、再考し、ついには遮断する全過程を通して「伝統」が重要な媒介としての役割を担っている。 * queering: 規範を攪乱させ境界を越えようとする試みあるいは行為と捉え「クィアする」と訳している  実際のところ、伝統を介して現代を語ることはオリエンタリズムとオクシデンタリズムの古い問題に取り組むことであり、ジェンダーの多様性という観点とはしばしば相入れないアジアの伝統が位置づけられる家父長制度内の行き詰まりの打開を含んでいる。ヨーロッパにおける最も古いグローバルなアートイベントの期間中に、アジアのナショナルパビリオンで開催される本展覧会はそれゆえ、ヨーロッパ中心主義、ナショナリズム、オリエンタリズム、オクシデンタリズムにまつわる様々な境界、障壁、警告を通して誤読されたり召喚される過程とも絡み合っている。 (...)  展覧会の準備期間中、私より上の世代のアジア人女性キュレーターに会った。彼女は私のキュラトリアルな提案に疑念を抱いているようで、女性/ジェンダーという他者、伝統、近代といった問題は、西洋という舞台におけるオリエンタルな戦略ではなかったのかと聞いてきた。彼女がほのめかしていたのは、私がヨソン・グックやチェ・スンヒの東アジアの舞踊、バリ公主神話といった伝統的なものを利用することで、ばからしいほどにオリエンタリズムを誇張し、アジア人女性アーティストを西洋オリエンタリズムの消費対象として見せているということだった。数年前にプロジェクト「実現され(なかっ)た伝統(Tradition (Un)Realized)」について話しているときにも、同地域出身の他の女性キュレーターから同様な批判を受けた。このプロジェクトはアジアの近代と伝統、そして地域的な近代の複雑さにまつわる論争の間の相互的再生産を探求するものだった。近代教育の受容者であるアジアのエリートが伝統から自身の距離を置き、何か劣るものとして伝統を抑圧している現象とその複雑な問題について私が説明した際、彼女は伝統から自由になるために闘った前の世代を尊敬するべきだと主張し、感情的に応答をしてきた。もちろん、彼女らの批判は断片的な判断であり単に推測だったように思われるが、複雑化したジェンダーの知覚を取り巻くある程度のアポリアの深い闇を証言する一方で、私にとって彼女らの反応は、東アジアの社会における近代と伝統に備わってしまった性質について考えるための瞬間であった。 この二人の女性は同世代で、私と同地域の出身である。家父長制度と保守主義下で育ちながら近代的教育を受け、職業的地位を見頃に確立した彼女たちに敬意を払っている。彼女たちの経験や葛藤は、私の世代がこの半世紀で経験した東アジアの社会の急速な発展とは同じ尺度で計ることはできないだろう。おそらく、彼女たちは伝統を抑圧的な家父長制に沿うものと捉えており、彼女たちの伝統への抵抗は東アジアの家父長制社会に対する異議のなかにあるのだろう。それゆえ、彼女たちが身を置く歴史的座標を見過ごすべきではない。私が理解する限り、彼女たちは西洋社会やエドワード・サイードによる「オリエンタリズム」の概念に関連する美術史や批判理論を学んだ世代の、制度の中に組み込まれたキュレーターなのであり、オリエンタリズム的な消費主義のなかに位置付けられる美術操作に意識的にならざるを得なかった。オリエンタリストが伝統を利用することに警戒する地域的傾向に対して、批判的に思考する彼女たちの流儀に強く共感している。しかし一方で、西洋からオリエンタリズムの問題点を学んだにも関わらず、彼女たちの世代は自らを西洋よりも常に劣る存在だと検知し判断してしまうというパラドックスを受け入れているのも事実だ。西洋の言説を内面化することで得た知識のヒエラルキーを誇示し教訓的に行使するような権威的立場にいる彼女たちにとって、打破し得ない西洋中心の知識のヒエラルキーを信じる考えが拭えない影のように彼女たちにのしかかっている。そのような立場の内側にこそ、帝国の受容とそのヒエラルキーへの追従が紛れもなく呼応しているのである。また、彼女たちの思考から生まれた不安は、間違いなく、オクシデンタリストの視点に内在する複雑なあり様と連座している。 実際のところ、オクシデンタリズムの視点からオリエンタリズムを調査したり内面化したりする過程と、アジアの社会における西欧的近代化を区別して吸収するという過程はとても複雑なものである。ワルター・ミノーロが指摘するように、モダニティーを賛同し支援する場合、その目に見えない片割れであるーー植民地主義ーーに目を向けなかったり、見ないふりをする問題にこそモダニティーは存在している。今日の非西洋キュレーターやアーティストで熱烈にデコロニアルな実践を追求している者たちは、彼ら自身がオクシデンタリズムかオリエンタリズムどちらかの操作者ではないのかどうかをあまりにも頻繁に確認し検査をするか、これら二つの視点をいかに乗り越えられるのかを追求する。ナショナリズムと反植民地主義が一つのものとして読解される強い傾向がある現在、ナショナリズムから抜け出す現代美術のある種の衝動が実際には内面化した帝国主義的な思想のもう一つの形式なのではないかと絶えず尋問するのだ。そうすることによって、多数の境界線の間の揺れ動きの中に自分たちを位置付ける。実際、そうした複雑な文脈のせいで、伝統に関連した物語や近代化の過程でのジェンダーと伝統が交差する場所にアプローチすることは、東アジア女性にとって、アジアにおける西洋近代化のプロセスのなかに埋め込まれた多数の衝突と分裂、そして暴力行為を証言し直面する方法である。そうすることによって、彼女らは外側の世界との関係にある複雑なインターセクションの反映を経験しながら、繰り返し踏み外さざるをえないのだ。ミノーロによれば、そうしたローカルな知識人が獲得した認識論的な強度こそが、まさに西洋のモダニティーの限界を認識させるものなのである。しかしその強度は、過去5世紀に渡って常に西洋を判断の基準として認知し、その基準よりも価値のないものとして感じられてきたものでもある。 では、アジアの女性とノンバイナリージェンダーは西洋の規範から、アジアの家父長制から、そして国民国家からいかに解放されることができるだろうか? まずは、西洋の植民地の歴史を前提としたモダニティーは常にコロニアル-モダニティーとして明言されるべきだとするワルター・ミノーロの議論の中に手がかりがある。もう一つの方法は、多様なジェンダーの解放をもたらすナラティブを「多元的」に実現するよう励むことである。そうすることで、私たちはコロニアルなモダニティーを生み出すものから自分たちを切断し、自分が住む場所の主体として定義することができる。本展覧会では、それが伝統を媒介とし身体的動作の情動的経験を通して起こる。ビカミング(何かになる)という行為は、家父長制度の構造と西洋の普遍的な歴史における直線的思考から断絶する極めて重要なアッサンブラージュなのだ。 クィアアフェクト、クィア・アッサンブラージュ (...)サイレン・チョン・ウニョンはヨソン・グックの稽古の過程で、一つの世代から次の世代へと口頭で伝えられる「身体間伝達(inter-body transmission)」の側面を強調する。それには、声による音(チャン)の習得だけでなく、身体の動きと演劇的な身振りも含まれている。言い換えれば、あるジェンダーになっていくこと(ジェンダー・ビカミング)と身体間の遭遇によって転移する伝統の要素である。そのような口伝えの伝統は、境界や境界線を乗り越える経験を包含しているように、ある種の過剰な感覚を伴っている。《A Performing by Flash, Afterimage, Velocity, and Noise(フラッシュ、残像、速度、雑音によってパフォーマンスすること)》において、チョン・ウニョンはそのような過剰な感覚の追求を実験をしている。彼女は単にジェンダーのアイデンティティや指向性を強調するだけでなく、私たちが常に経験している感覚と情動によって歴史の規範がどのように遮断されるのかを問う。 音とフラッシュの摩擦を利用して、安定した穏やかな視覚的慣習を乱し超過するような揺さぶりかける触覚へと置き換え、最終的にはパフォーマンスアートの実践で持続されてきた身体のポリティクスを最大化する。 (...)  ではなぜそのようなクィア的時間と体験が必要なのか? 近代のリミナリティ、伝統、そしてヨソン・グックのクィア・パフォーマンスに内在するクィアを転覆させながらアッサンブラージュを知覚することは、単に性の主体の領域を表象する方法であるだけではなく、ジェンダーの体験を不明瞭にする社会的行為へと進むことであり、性のアイデンティティーと境界線を不規則で(アブノーマルな)感覚に備わった性質を通して考えることである。今日、韓国を含めた複数の社会において、歪んだ異性愛またはシスジェンダー中心のフェミニズムがクィアやイスラム教難民に対するネオリベラルな権利や恐怖症と結託する現象がみられる。(...) レイシズムやナショナリズム、家父長制度を見過ごしながら、行為主体性として性の抑圧を通してのみクィアを考えてしまうと、ある者はその他全員に対して警戒するようになってしまう。だからこそジャスビル・K・プアはクィア言説の同化戦略から逃れ、それよりもアブノーマリティや周縁化された立場を主張し追い求め、クィア容認の(再)生産を通してノーマリティの線引きを規制する排除の枠組みに意義を唱えるようなクィア・アッサンブラージュを主張するのである。ここでプアが「アッサンブラージュ」というのは、感情、触覚性、存在論、情動、そして情報に関係している。つまり、アッサンブラージュは「存在論に恩を受けつつ、知られていない、見えない、聞こえない、あるいはまだ知られていない、見えない、聞こえないものを擁護しながら、ビーイングス(何かであること)を超えたビカミングス(何かになること)を可能にするのである。」*8 (...) 伝統がナショナリストの言説で活発に利用されている東アジアの社会において、作家がヨソン・グックの中で見出し増幅したクィア・アッサンブラージュは、実際はパラドックスな挑戦である。近代化と家父長制度が密接に関わっていることと、ある種のねじれたアインデンティ・ポリティクスが非シスジェンダーや難民へのヘイトの声へと退化した今日の状況を考慮すれば、ウニョンの作品は感覚と情動を通してアブノーマリティーのより基本的な経験、つまり、クィア的時間の出現とその存在を誘発し抱えて行く。この作品はパフォーマンスと、レズビアン、トランスジェンダー、そしてディサビリティを持つクィア女性を見せている。彼らは不協和音であるが触覚的な雑音、接合、分離を通して、パフォーマンスの慣習的な論理に挑戦し身体的な不調和を作動させている。《A Performing by Flash, Afterimage, Velocity, and Noise》では、その束縛を打ち砕くために、ウニョンはメディアとその物理的な力を国際的な観点からは節度を欠いてーーむしろ悪用とも言えるーー使用する。 踊ることさえできれば  ナム・ファヨンによる2つのビデオ・インスタレーション、《Dancer from the Peninsula and A Garden in Italy(半島から来た舞踊家とイタリアの庭)》は舞踊家チェ・スンヒ(1911-1969)を追った作品である。20世紀にすでに東アジアの舞踊を夢みて世界中を旅行するようなコスモポリタンの生活を送っていたチェ・スンヒの芸術実践は植民地主義と冷戦のイデオロギーとの分断や性質に絶えず滑り落ち、ディアスポラのなかにその命を失った。 (...) 東アジアの舞踊を「考え出す」ことに熱心であったチェ・スンヒは、抗えない歴史の軌跡を示している。卓越した日本人振付家・石井漠に西洋舞踊を学んだひとりのアジア人女性が、西洋の近代とオリエンタリズムと出会ったことにより、伝統の創案を再認識しそれを試みたのだ。しかし、オクシデンタリズムの経験を通して彼女が進んでオリエンタリズムの戦士になったからといって、彼女は両者の単なる手段として奉仕したにすぎないと言い放つことはできない。彼女ははっきりと、日本と植民地朝鮮との違い、西洋の帝国とアジアの帝国との違い、そして西洋の近代と近代的になりゆくアジアとの違い、そしてその連続性を自覚していた。彼女の舞踊における試みは単なるオリエンタリストの産物であったのだろうか? (...)アーカイブ資料や音声映像などの要素を振り付けするように配置することで、ナムはチェ・スンヒが夢見、追い求めたものの、決してたどり着くことが出来なかった抽象的で相反する空間の輪郭を描いている。(...)チェは、舞踊、動き、舞台、戦争、歴史的な混乱、国家の騒乱と国境の感覚を巡る特有なアッサンブラージュの例である。チェが生きた時代は、リミナルな人物としての彼女が二分された国境の両側を超えていくことを許さなかったため、ナムの作品におけるチェの動きと声の修復は、彼女を通り抜けた近代の葛藤について私たちを考えさせる。  (...) 私たちがチェに下した有罪判決は、本当に今日の韓国社会の家父長的な言説や東アジア諸国を互いに競争させたナショナリズム的な言説とは違うのだろうか? これまでずっと彼女の後を追い続けて来た二つのキーワードはタブーと違反である。彼女の存在は、現代の国境を越えて奮闘した近代のアジア女性の計り知れない、自由で、国境のない精神を思い出させる。「半島から来た舞踊家」はチェの盲目的な神話化を繰り返すことも、彼女のダンスを表現することもしない。代わりに、ナムの独特で鋭敏な感覚により、チェの多くの資料と軌跡をたどり、彼女の人生の断片を遭遇、パサージュ、そして情動の領域へと変換する。それは、複数の身体をより広い世界に向けて展開するのだ。より大きな世界との出会いによって生み出された東アジアの舞踏を精力的に探し求めた植民地時代の女性芸術家であるチェから召喚できるのは、すべての近代の境界とマトリックスを自由に侵入しようと懸命であった舞踊する主体の現れである。 バリ、リミナルな者 (...) 完璧に秩序化されたナショナリズムが既存の儒教的家父長制度と結びついたとき、個人や女性、非異性愛者への抑圧や拒絶は社会における主潮の物語となってしまった。ジェーン・ジン・カイセンは、個人の証言や記憶を扱い、戦争や国民国家、植民地主義を含むモダニティの境界線づくりの過程全体にみられる他者への暴力、特に女性への暴力の歴史を探ってきた。(...) カイセンは彼女の個人的なディアスポラの経験と強く共鳴するバリ公主神話を、東アジアの近代化の様々な問題に伴って新たに展開しうる物語として読み解く。 (...)  《Community of Parting(分け目にあるコミュニティ)》は、神秘的な人物バリのいかなるイコン的イメージをも示さない。それどころか、間違いなくモダニティーのイデオロギー的装置と言えるカメラのレンズがまるでバリの目線から撮影したかのようなシーンを送り届ける。叙情的でありながら思慮深い黙想のあり方を抱擁しながら、カメラは東アジアの都市と辺境に匿名的に存在する無数の女性たちの姿をまなざし、陸と空との間を上下に移動する。近代のマトリックスの傷跡を残しながら、これらの場所は暴力と傷の場所となってきた。しかしカメラの繊細な眼差しが捉えるのは、海の波であり、森林が空と出会う地平線であり、呼吸する荒野である。現在は荒れ果てているかもしれないがいつか居住の場所に、そして生政治の場所になる潜勢力をひめた荒野。これがバリの空間ーー分断のない空間、「分け目にあるコミュニティー」が生き住まうことのできる空間ーーなのだ。 (...)   韓国館展覧会における三人のアーティストの主要な関心事とは、コロニアル/モダニティ、ジェンダー/他者、トランスナショナリズムという概念とともに、主に近代と国民国家、伝統、そして家父長制度の合併によって形作られた東アジア社会のアイデンティティの概念を置き換える試みをすることである。ジェンダーの多様化と複雑化という観点によって明らかにされた伝統は、伝統の束縛に取って代わることができる。歴史的な介入の複雑な物語のアッサンブラージュを生成しながら、この三人のアーティストはシステムと権力の論理に抵抗し裂け目を作り出し、文明、慣習の暴力、そしてそのような歴史の規範が現代においてどのように発展するのかを鋭く問いかける。音、リズム、波、そして散乱するイメージと身体的動きの連続によって表明される触覚的知識と情動の経験のパフォーマンスで溢れ、本展覧会は、覆い隠され、忘れ去られ、追放され、非難され、そして沈黙させられた者たちの空間を作り出そうとする。ここでは、彼らは囁き、歌い、泣き、ためらい、笑い、表現し、動き、踊る。そして、最終的には声を大にして言う。歴史は私たちを失望させてきた、だがそれでも構わない。 原註1. Walter D. Mignolo, The Darker Side of Western Modernity: Global Futures, Decolonial Options (Durham/London: Duke University Press, 2011), xxiv.2. Jasbir K. Puar, “Queer Times, Queer Assemblages” ed. David L. Eng Jack Halberstam and José E Muñoz, Social Text (2005), 23, issue (3-4 (84-85): 134.3. 本展覧会のタイトルはイ・ミンジン『パチンコ』の最初の文から借りて来ている。本書は、在日朝鮮・韓国ディアスポラの力強い物語であり、20世紀の東アジアの混乱のなかでサバルタンとしての位置づけられた女性の波乱の生涯を描いている。Min Jin Lee, Pachinko (New York: Grand Central Publishing, 2017)8. Jasbir K. Puar, ibid., 128.

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#Conversation

シモ・ケロクンプ対談:「リーディングプラクティスとしての振付」と日本のマンガ
#Editorial, #Conversation フィンランドのラップランド生まれのシモ・ケロクンプ(Simo Kellokumpu)は、ヘルシンキを拠点とするアーティスト、コレオグラファー、リサーチャーで、2019年にシアター・アカデミー・ヘルシンキのパーフォーミングアーツ・センターより芸術博士号を取得。彼の実践は、多様な規模と文脈のなかで身体と物質間の振付的関係を探求し、作品は現代のスペキュレイティブ・フィクション、惑星間文化、そしてクィア(する)空間の複雑な絡み合いのなかで作用する。 2010年よりフランスのアーティスト、研究者であるヴァンサン・ルーマニャックと協働制作をしており、研究集団Qi͈̬̿͝l̴̛̬̝̒o̵̰̍̔ǘ̴̼ḓ̷̟̓̅s̷̻̦̆Q̸̠̿͒u̷͓͚͊̽A̸̛̘͝r̷̖͈̀͝ṭ̶̏͘z̶̩̩͛の創立メンバーとしてオウティ・コンディットとルーマニャックと共同研究を行っている。ケロクンプは現在、ルーマニャックと谷沢直との協働制作である三部作「アストロトリロジー(Astrotrilogy)」(《pompom》東京、2017・2018年/《ri:vr》パリ、2019年/《åstra》サンフランシスコ、2020年)に取り組んでいる。 マルスピとの会話は、2019年12月にパリで第二部《ri:vr》を発表し、同時にマルスピがウィーンで開催された展覧会「When It Waxes and Wanes」に誘ったことから始まった。以下のインタビューはメールによって行われ、日本のマンガとその可能性に関連して、ケロクンプの実践と作品について話し合った。 《ポンポン》インスタレーションビュー 「When It Waxes and Wanes」VBKÖ(ウィーン)撮影:Miae Son 丸山美佳(マルスピ/以下、Mika):それでは、2017年に東京で制作した作品《pompom(以下、ポンポン)》を含む「リーディングプラクティスとしての振付(choreography as reading practice)」を扱った博士のリサーチプロジェクトの理論的背景と、振付という実践について聞くことから始めたいと思います。特にこの作品では、東京の空間とその一時性に対する経験と解釈を通して、自身の身体を用いた振付的な動きと身体の緊張関係とに取り組んでおり、パフォーマンス・インスタレーションとして映像、パフォーマンス、そしてマンガを制作しています。私は東京で発表した際のパフォーマンスを見ることが出来ませんでしたが、マルスピ編集チームの遠藤麻衣は、あなたの存在がさまざまな階層で同時に複数化するのを目撃したようだった、と作品の経験を述べています。彼女にとってこの作品は、空間への変容的反応の仲介としての振付/身体を示すものであったようです。また、インスタレーション内におけるマンガの使用法は、異なる視点から現代の振付という実践に光を当てているようにも思えます。なぜならマンガにおける身体表現は、芸術的な表現や動きとは違う仕方で、あなたの身体の内部で起こる身体的変容を扱っているように見えるためです。作品の背後にある基本的な考え方と、「リーディングプラクティスとしての振付」の観点から日本のマンガをどのように使用するようになったのかを教えてください。 シモ・ケロクンプ(以下、Simo):ポンポンは、私とフランス人監督でありアーティスト、研究者のヴァンサン・ルーマニャックとマンガ家の谷沢直さんの3人の協働制作の作品で、私の振付としてのリーディングプラクティス、ヴァンサンによるビジュアル演出、そして谷沢さんのマンガ家の実践をまとめたものです。このプロジェクトでは、私の西洋的でサイト・スペシフィックで、かつコンテクストレスポンシブ(context responsive)な振付実践を現代のSFや日本のマンガと混ぜ合わせることによって、東京の経験的な運動をフィルタリングしています。プロジェクトを計画するにあたっての出発点は、次のような問いにあります。「ゲスト」として、動きのレンズを通してどのように現代の東京を具現化するのか? 東京とその固有な動きを持つ空間、モビリティシステム、および変容する物質性は、コレオグラファーの身体をどのように変化させるのか? これらの運動はどのように東京を生み出すのか? 日本のマンガとともに、これら膨大な運動に宿り、翻訳することで、どのようなコレオグラフィック・アートが出現するのか? 親密な西洋的実践が日本のマンガとの対話を通して東京の大都市と出会うとき、どんな種類の批判的かつ物質的な出会いや類似した関心、翻訳、転置、パラドックス、緊張状態が生まれてくるのか? 言い換えれば、このコレオグラフィック・インスタレーション作品の規模とは、私の博士のアーティスティック・リサーチ・プロジェクトで実施された他の作品を補完するもので、過剰運動的な超巨大都市である東京という枠組み内で、運動と場所、そして物質環境の関係を振付として具現化することの探求でした。2017年秋に東京アーツアンドスペース(TOKAS)のレジデンシーでヴァンサンと一緒に三ヶ月間過ごしてこの作品の制作をしました。      私は、具現や肉体化という意味でのエンボディメント、運動、そして身体性に関する問いの重要な批評的背景としての現代のSFに興味があります。 日本のマンガは西洋のSFに大きな影響を与えていますし、日本のマンガにおける運動の力学の視覚化とマンガの見え方に関心を持っています。谷沢さんと一緒に仕事をしながら、マンガを観るときに目の動きに専念することが重要だということも学びました。またマンガは、あらゆる種類の想像上のエンボディメントが行われる日本文化の一つの分野です。これらの理由は私の研究の問い対して理にかなうものであり、このプロジェクトをこの方向に進むていくことは正しい芸術的選択のように感じました。Mika:ポンポンでは、谷沢さんとどのように仕事をしたのかについても教えてください。この協働制作は、単に彼女にマンガ制作を依頼しただけではないと思っています。お互いが異なる分野で活動しており、また異なる背景や視点を持っているため、お互いの作品をより深く理解できるように彼女との深いコミュニケーションが必要だったのではないでしょうか。そして、あなたにとっては、そのコミニケーションはマンガとそのなかで展開されるエンボディメントや、動き、身体性についてのより深い理解をもたらしたように見受けられます。 日本のSFも歴史的には西洋のSFの影響を受けて発展してきましたが、制作中に出会った西洋的実践と日本文化の現代的な混合物を、自身の振付実践や現代のSF全般でどのように位置づけていますか? 《ポンポン》東京、2017年  撮影:ヴァンサン・ルーマニャック Simo:ヴァンサンとはまず最初に、「ポンポン」と呼ばれるクィアなマンガキャラクターを作り出し、東京の五ヶ所でリーディングプラクティスとしての振付を試みたビデオを五本撮影しました。ビデオのなかでは、日常的に知覚される運動から惑星や銀河の運動まで、選んだ場所を構成する運動に対して感受性を用いて振付をしていますが、作品全体のアイデアとして、私は一つの場所に留まり動き回りません。重要なのは、ビデオではマンガのキャラクターになろうとしているわけではないということです。青いウィッグの着用を決めたのは、日本のマンガ文化との出会いの場での交渉を指し示す視覚的な要素であり小道具だからです。社会・歴史的または言語的な経験と理解がない場合、短期間で文化的環境を表現したり具現化することは不可能だということは言うまでもありません。この「不可能な任務」は、このプロジェクトの動機付けの一つであり、文化的な地殻変動やさまざまな芸術実践について学ぶための触媒としても機能しました。      インスタレーションでは、ビデオとマンガを互いに平行に設置することを基本としており、鑑賞者はその二つのメディア間で対話を形成することで作品を体験できるようになっています。私のエンボディメント、つまり具現化としてのライブパフォーマンスはこれを補完するもので、ギャラリースペースの中でその空間との、そしてそれを介して開かれる動きのなかの実験です。マンガの各シーンで、ポンポンはある特定の方法で場所に接続します。自身のアクションによって、またはその場所における活発な仲介人(agent)や存在(entity)に出会うことによってです。この接続によりその場所は星雲へと変換され、手元の動きが宇宙のスケールへと拡張されることによって、各シーンはミクロな光景と銀河系の背景が結合します。ポンポンが宇宙旅行から戻り地球に衝突すると一つの体液が漏れ出し、特定の効果でマンガは終わります。複数の場所に同時にいることができるという観点で言えば、テレポーテーションやアンチ/スーパーヒーローイズム、シェイプシフティング(いろいろな姿に変身すること)は、このプロセスにおけるの語彙の一部でした。この作品の制作中は、インデペンデントなクィアのマンガ文化についてもっと知りたいと思っていましたし、谷沢さんと有意義な議論をするのと並行して、日本のSFの歴史を研究しました。 マンガ《ポンポン》(2017年)より        谷沢さんとは共通の基盤を簡単に見つけることができましたし、一緒に仕事をするはとても楽しかったです。 最初に谷沢さんにビデオを見せて、私が運動や動きの概念にどのように興味を持ち、具現化された実践という観点から「読むこと」の実験をいかにしているかを説明しました。このような「レスポンシブな実践(responsive practice)」の文脈で、どのようにマンガを使用することが理にかなっているのかを検討し、最終的に谷沢さんがマンガで使うための詳細なストーリーを私たちが書くということになりました。マンガのストーリーは、ビデオを撮影した五ヶ所での実験に基づいています。 制作期間中は定期的に会ってストーリーを一緒に進め、毎回のミーティングに谷沢さんはマンガのスケッチを持ってきてくれたので、それをもとに議論をしました。 私の役割は、枠組み、基本的なドラマツルギー、動き、キャラクターの表現を詳細に設定するという意味でマンガの振付家として働くことであり、谷沢さんはそれらの芸術的な演出と対話をしながら作業をしてくれました。 Mika:東京と「クィア(する)空間」という概念に関連して、クィアのキャラクターであるポンポンはヴァンサンとどのように作成したのでしょうか? いまでもマンガを読み、日本語文化圏の出身者として、私はマンガとの関連でこの概念に取り組むのが難しいと感じることがあります。なので、あなたがこれらの文脈と(もしこのジャンルが存在するとしたならば)インデペンデントなクィアのマンガという形式をどのように読むかについてもとても興味があります。また、マンガのポンポンを初めて読んだとき、キャラクターの身体が多様な動きや変容、情動をともなって、さまざまな空間性と時間性の間を宇宙旅行するといったテレポーテーションの側面にすぐに気付きました。しかし、各々の空間で起こる繰り返しの(しかし、異なる方法での)物語(あなたの言葉で言うとしたら、アンチ/スーパーヒーローと呼ばれるもの)は、別の「不可能な任務」を見せていたようにも思います。それは否定的な意味ではなく、フェミニズム/クィアの言説と実践がこれまで行ってきたことに近いものなのではと思っています。なぜなら、読んだり書いたりすること(そしてあなたの実践においては振付をすること)には、常に特定の不可能性が伴うからです。これらの側面について、あなたの実践に則して説明することはできますか?  Simo:私にとって、マンガのなかで具象化されたこれらの形態は、私が「規範的な主体」と呼んでいるようなものの特定の輪郭を遂行し、不安定にします。私たちが取り組んだこの種の具象化されたものとは、例えば私の視点からすると、存在の状態としての転移と逸脱のプロセスを遂行する一方で、未知なるものと馴染みのものとの関係がこれらの環境でどのように展開するかという問いをも物質化します。東京での初めて滞在ということもあって、もちろん最初は多くの明白な文化的な動きが問われていましたが、ゲストとしての私の役割はそれをすべて受け入れることでした。これは「観光客」としての自分の立場を受け入れるということではなく、文化的および社会的な間の空間で、自分の場所に働きかけること、そしてどのように行われるか、ということを意味しています。実際のところ、これが私がいつも実践している方法です。ここでは文化的な文脈はこの過程を増幅し、私が同時に学んでいたそういった特定の文化的背景を認識しながら、これらの親密な問いに応答する方法がマンガでした。私にとって、マンガはこれらの逸脱を描写しており、親密なものと規範的なものの間のパラメーターを変更する試みとしても機能します。SFとファンタジーは広く行き渡ってる状況に対するオルナタティブを描写する分野であり、だからこそ私もそれらに惹きつけられています。      ポンポンのキャラクターーーまたはシルエットと言ってもよいですがーーは、日本に来る前にレジデンシーでのプロジェクト準備をしていたときに、さまざまな直感が交差することで生まれたもので、TOKASで作業を始めた最初の日々で固まりました。このプロジェクトの最初の動機は、東京の超流動性と物理的に接触することでした。ただ、直接的な衝撃を打ち込むのではなく、面と向かった生の文化から分離したフィクションの「てこの作用」を通してやりたいという望みがありました。つまり、人物描写(charactarization)を通して、あるいは人物描写することによる空間化/間隔の作用を通してです。したがって、「キャラクター」を作成することを考えました。最初は、宇宙飛行士の姿からその可能性について考えていましたが、歴史的かつ文化的にあまりにも意味合いが強すぎるため、この考えはすぐに放棄しました。レジデンシー前に東京の都市インフラに関するのリサーチと並行して、メガロポリスの運動という表象の多様な様式や制度を収集するなかで、日本画や映画、マンガにおける都市の表象にも興味を持ち始め、この時点でマンガ文化を扱ったり引用したり、アプローチするという考え方が前面に出てきました。それから、キャラクターデザインを流用するのではなく、柔らかく遭遇するという観点から考える必要がありました。また、クラウド的なものやハイブリット性、両性具有性、または浮遊や動いていることに取り組みたいと思っていました。最終的に、試しに秋葉原にウィッグを買いに行ってみたところ、そこでポンポンが姿を現したわけです。西洋的でノームコアな現代の服装に青いウィッグを追加するだけで、なにものかになる状況、それはほぼマンガでした...。このシンプルな行為は十分なものであり、ウィッグが要点に触れる機能をしてくれました。      東京と日本文化との慎重で、柔らかく、願わくば目立たずに、押し付けがましくはない遭遇を実行するという同様の考えのもと、ヴァンサンはビデオを撮影する際に、焦点を少し外して、わずかだけれど環境を間接的なものにしてくれるレンズを使うことを提案してくれました。これは同時に、植民地主義的な記録のあり方に絶えず存在する危険性だけでなく、不確実性と脆弱性ーーおそらく出会いの「約束された失敗」ーーに対する認識に取り組むことも意図されていました。また、夢のような環境を誘発することで、一時的なものの複数性の詩学と、パフォーマンスの「いまここ性」の回折を可能にしたかもしれません。 Mika:ウィーンでパフォーマンスを見た後ですが、ビデオのポンポンのように実際のパフォーマンス/振付でも顔を見せないことは注目に値すると思いました。目がウィッグで覆われて双方の視線が適切に機能しないため、観客はパフォーマンスを見ているけれど、あなたの存在は見ないか、多少なりともそれを無視しようとしていました。観客の一人は、それをフィクションと現実の間で発生している存在の摩擦として表現していました。同時に、ウィッグを脱いで群衆とスムーズに混ざり合って「現実」に戻っていく様子を見るのも非常に興味深かったです。しかし、マンガの中ではポンポンの顔も見えるし、小さな生き物とのコミュニケーションが見られますよね。私が知っている限りでは、あなたはプロのマンガ家と協力して振付実践に関わるマンガを実際に制作した最初の人なので、谷沢さんとの協働制作についてもう少し聞ききたいです。 Simo:パフォーマンスは作品の一部ですが、作品はそれなしでも見せることができます。 日本では、この作品は、ビデオ、マンガ、ライブパフォーマンスを展示し、物質的に関係させあうことよって、マンガの新しい見方を可能にしているというフィードバックを受け取りました。このような感想は、プロジェクト全体にとって非常に有意義だと感じました。私にとって、プロジェクトとは継続的な対話とそれらの関係の実験であり、また同時に摩擦になり得るものだからです。       マンガの制作中は、私の役割はいわばマンガの振付家だったわけです。谷沢さんはヴァンサンと私が作った脚本にスケッチを描いて応答してくれて、そのスケッチを元に細部の議論しました。特に覚えているのは、私の振付の思考を元にして、その種の動きの経験や知覚をどのように描写することが可能なのかと議論し合ったことです。このような問いは私たちの対話をさらに進めてくれるものでしたし、例えば、マンガ家が動きを捉えるために映画の発展にどのように応答してきているのかという歴史へと導いてくれました。谷沢さんと私たちの協働制作はまだ続いており、現在は「アストロトリロジー」の第二作目を制作中で、すでにいくつかのスケッチを受け取っています。イメージを開封し、どのようにプロジェクトが動いて行くのかを見るのはいつでもとてもワクワクします。 《ri:vr》 パリ、2019年 撮影:ヴァンサン・ルーマニャック Mika:他のエピソードでも谷沢さんとの協働制作が続いているのはとても興味がありますし、この協働制作が最初の舞台である東京からいかに発展していくのかを楽しみにしています。是非、パリとサンフランシスコのエピソードについても教えてください。また、私が展覧会「When It Waxes and Wanes」でもほのめかしていたこととも繋がるのですが、この会話は、異なる文化の表象を通じて発展してきた少女マンガ、特に1970年代の西洋の美学とホモセクシュアリティーやトランスセクショナリティーを取り入れつつ、SFの文法を頻繁に使っていたものを連想させます。あなたは様々なメディアで表象され続けてきた東京という場所から始めましたが、その他の場所では別の仕方で場所との関係性を持ちますよね。二人のアーティストととの協働作業と振付実践のなかで、パリやサンフランシスコという特定の場所とはどのように取り組んでいるのでしょうか?  Simo:私は「コンテクストレスポンシブ(context-responsive)」、または「プレイスレスポンシブ(place-responsive)」な出発点に働きかけており、これは「アストロトリロジー」の続くエピソードにおいて理解し検討しようとしていることで、私たちが取り組んでいる場所に”過程が発生する”ということです。パリでの二作目はCité internationale des Artsのレジデンシーで制作され、三作目はサンフランシスコとカリフォルニアへの一ヶ月の旅行中に進行しました。パリでは《ri:vr》と呼ばれる作品が、惑星運動、集中的な衛星結合のデータフロー、アルゴリズムのワイヤー・スピードに条件付けられた細胞の生成(becomings)の絡み合いにのなかに出現しました。言い換えると、《ri:vr》は存在するさまざまな潮流や流動、循環の衝突によって生成された、とりとめない場所として変質した身体を提示しています。つまり、レジデンシー近くの川岸に沿う水生の淡い青緑色の生き物と、電気およびアルゴリズムシステムの組み込まれその周囲を駆けまわっている者たちです。このプロジェクトではまた、髪の代わりに生きている毒ヘビを持つ怪物の神話を不気味な方法で再検討しています。 《åstra》サンフランシスコ、2020年 撮影:ヴァンサン・ルーマニャック        サンフランシスコでは《åstra》と呼ばれるプロジェクトが、プラネタリーダンスの歴史に飛び込み、それを惑星間ダンスへと変容させています。また、シリコンバレーという場所固有のクィアの歴史とコンピュテーショナル・コンポーネンツ(computational components )も取り入れました。これらすべてのエピソードで、私は一時的に特定の条件を訪れたゲストの立場から取り組んでいるため、その立場を批判的に認識することで、文脈的かつ物質的な環境に宿る方法を常に探しています。この文脈的および物質的状況の調査は、アート作品として手を加えることができるようなトレース、ドキュメント、およびジェスチャを何度も生成します。ヴァンサンとはこれらの場所で一緒に仕事をしてきていますが、谷沢さんとはメールでオープンに対話を続けています。この三月に東京で谷沢さんに会って第二作目のマンガ制作を進める予定で、とても楽しみです。最終的には「アストロトリロジー」プロジェクトのための三冊のマンガが制作されるわけです。 三部作すべてを同時に展示し、プロジェクトを公開して聴衆と共有する可能性も探しているところですが、私たちがプロジェクトを始めた東京は、それを行う意味のある場所だと思っています。 《åstra》サンフランシスコ、2020年 撮影:ヴァンサン・ルーマニャック . . オリジナルテキスト:Simo Kellokumpu in conversation on “choreography as reading practice” and Japanese manga(英語)翻訳: 丸山美佳

#Editorial

#Conversation

Simo Kellokumpu in conversation on “choreography as reading practice” and Japanese manga
#Editorial, #Conversation Born in Lapland, Finland, Simo Kellokumpu is an artist, choreographer, and researcher based in Helsinki. He received his DfA (Doctor of Arts) from the Performing Arts Research Center, Theatre Academy Finland in 2019. His artistic works examine the choreographic relations between corporeality and materiality in various scales and contexts. His work operates in the entanglement of contemporary speculative fiction, interplanetary culture, and queer(ing) space. Kellokumpu has been collaborating with the French artist and researcher Vincent Roumagnac since 2010, and he is a founding member of the Q̶͈̬̿͝l̴̛̬̝̒o̵̰̍̔ǘ̴̼ḓ̷̟̓̅s̷̻̦̆Q̸̠̿͒u̷͓͚͊̽A̸̛̘͝r̷̖͈̀͝ṭ̶̏͘z̶̩̩͛  research cluster with Outi Condit and Vincent Roumagnac.           Currently, Kellokumpu is working on his ongoing project Astrotrilogy (pompom, Tokyo, 2017/8,  ri:vr, Paris, 2019 / åstra, San Francisco, 2020) in collaboration with Vincent Roumagnac and Nao Yazawa. Our conversation started when he recently presented its second episode ri:vr in Paris in December 2019 and Multiple Spirits invited him to take part in the exhibition “When It Waxes and Wanes” in Vienna. The following is based on a correspondence by email where we discussed his practices and works in context of Japanese manga and its potentiality. pompom, installation view of "When It Waxes and Wanes" at VBKÖ, photo: Miae Son Mika Maruyama (Multiple Spirits:):  I want to start by getting into the theoretical background and choreographic practice of your doctoral research project dealing with "choreography as reading practice," which includes pompom that you made in Tokyo in 2017. Especially in this work, you work on choreographic movements and bodily tensions within your own body through your experiences and interpretations of the space of Tokyo and its temporariness, producing a performative installation consisting of films, performances, and Japanese manga. I couldn't see your performance in Tokyo, but my colleague Mai Endo describes her experience of the work as witnessing your existence multiplying into different levels at once. To her, the work demonstrated the choreography/body as a conduit for transformative reactions to space. At the same time, how you use Japanese manga inside the installation sheds light on the contemporary choreographic practice from a different perspective. This is because it seems that the bodily expression in the manga deals not with artistic expression or movements but with bodily transformations happening inside your body. Could you tell me about the basic thinking behind the work as well as how you came to use Japanese manga in terms of "choreography as reading practice"? Simo Kellokumpu: pompom is a collaborative work by three artists: myself, French director and artist-researcher Vincent Roumagnac, and Japanese manga-artist Nao Yazawa. The work brings together my choreographic reading practice, Vincent’s visual staging, and Nao’s practice as a manga artist. The project filters experiential movements of Tokyo by compounding my Western, site-specific, and context responsive choreographic practice with contemporary science fiction and Japanese manga. The starting points for the working plan of the project lay in questions such as: How, as a guest, does one embody contemporary Tokyo through the lens of movement? How does Tokyo and its moving spaces, mobility systems, and transforming materiality shapeshift the choreographer’s body? How do these movements produce Tokyo? What kind of choreographic art emerges by inhabiting and translating these massive movements with Japanese manga? What kind of critical and material encounters, parallel interests, translations, transpositions, paradoxes, and tensions are emerging when intimate Western practice meets the megalopolis of Tokyo through a dialogue with Japanese manga? In short, the scale of this choreographic installation work complements the other works done in my doctoral artistic research project, namely in examining the choreographic embodiment of the relations between movement, place and material surroundings within the framework of the hyper-mobile megalopolis Tokyo. Vincent and I spent three months in autumn 2017 in Tokyo at Tokyo Arts and Space (TOKAS) residency to process this work.    I am interested in contemporary science fiction as a critical backdrop to the questions concerning embodiment, movement, and corporeality. Japanese manga has had a big impact on Western science fiction. I am interested in the visualization of the movement dynamics in Japanese manga and the way manga is viewed. While working with Nao, I also learned that working with the movement of the eye while looking at manga is important. And manga is one of the Japanese cultural fields in which all kinds of imaginary embodiments take place. These reasons made sense to my research questions, and to move in this direction in this project felt like the right artistic choice. Mika: Could you also tell me more about how you worked with Nao for pompom? I think your collaboration does not take the form of simply asking her to make a manga. Instead,  you needed to communicate with her to allow a deeper understanding of each other’s works since you have worked in different fields and have different backgrounds or perspectives. And for you, this also entailed a deeper understanding of manga and its embodiment, movement, and corporeality within it. At the same time, Japanese science fiction has also developed historically with the influence of Western science fiction. So how do you position contemporary compounds of Western practices and Japanese culture that you encountered during the production in your choreographic practice and in contemporary science fiction in general? pompom, Tokyo, 2017Photo: Vincent Roumagnac Simo:  In the beginning, we, me and Vincent, created a queer manga character called pompom and shot five videos in five different Tokyo locations in which I experimented with the choreography as reading practice. In the videos of pompom, I work with the sensitivity to the movements that constitute the chosen place from everyday perceived movements to planetary and galactic ones. Due to the idea of the whole work, in the videos, I stay in one spot and do not move around. It is important to note that in the videos, I do not try to become a manga character, but the decision to wear a blue wig is a visual component and prop, which points to a negotiation at the meeting point with Japanese manga culture. It is obviously impossible to embody a cultural environment in a short period of time when you do not have socio-historical or linguistic experience and understanding. This ‘mission impossible’ was one of the motivating factors of the project, and it also functioned as a catalyst for learning about the cultural tectonic movements and different artistic practices that were at stake.    The installation is based on setting the videos and manga parallel to each other in a space where the viewer can experience the work by forming a dialogue between these two mediums. My embodied live-performance complements this by being an experiment in and with the gallery space and the movements opening in and through it. In each scene of the manga, pompom connects with the location in a specific way – either by his own actions or by meeting an active agent or entity in the location. The connection causes the location to transform into nebula, so each scene combines a micro-scene with a galactic one by extending movements at hand towards the cosmic scale. When pompom crashes back to the Earth from the space-trip, one body-liquid leaks out and the manga finishes with a specific affect. Teleportation, anti/superheroism, and shapeshifting were part of our vocabulary during the process, for example from the viewpoint of being able to be in many places simultaneously. During the work, I also wanted to find out more about the independent queer manga culture. And I studied the history of Japanese science fiction in parallel with having great discussions with Nao.  From the manga pompom, 2017     We found a common ground quite easily, and working together was also really fun. In the beginning, we showed the videos to Nao and I explained how I was interested in the notion of movement and how I was experimenting with reading in terms of embodied practice. We discussed how working with manga would make sense within the context of responsive practice, and in the end, Nao asked us to write a detailed storyline for a manga to work with. The storyline of the manga panels is based on the experiments in those five different locations where we shot the videos. We met regularly during the working period and processed the storyline together, and in every meeting, Nao brought sketches for the manga to be discussed. We agreed that my role was to work as the choreographer of the manga, in the sense that I set the framework, the basic dramaturgy, movements, and expressions of the character in a detailed manner, and Nao worked in dialogue with those artistic directions. Mika: How did you create the queer character pompom with Vincent, especially in relation to Tokyo and the notion of queer(ing) space?  As a person coming from a Japanese speaking context, who has always read manga, I sometimes have difficulties to work on that notion in relation to manga, and therefore I’m really interested in how you read these contexts and formats of independent queer manga (if this genre exists… ). Also, the first time I read the manga of pompom, I immediately noticed aspects of teleportation as the character’s body undergoes space-trips between various spatialities and temporalities with different movements, transformations and affects. But at the same time, the narrative (what, in your words, could perhaps be called anti/superheroism) of the repetition (but in a different way) happening in each space shows another ‘mission impossible’, not in a negative way but as something closer to what feminism/queer discourse and practice have done so far. Because reading and writing (and making of choreography in your practice) always involve a certain impossibility.  Could you elaborate on these aspects in your practice? Simo: For me, these embodiments in the manga perform and destabilize the particular outlines of something that I might call a ‘normative subject’. This kind of embodiment that we worked with, performs, for example, displacement as a state of being and the process of deviance from my perspective, while it also materializes the question of how the relation between the unknown and the familiar unfolds in these surroundings. It was my first time in Tokyo ever, and of course, there were many obvious cultural movements at stake in the beginning, but my role as a guest was to embrace all that. This does not mean to accept my position as ‘a tourist’, but to work with my place, and how to take place, in cultural and social between-spaces. Actually, this is how I work all the time. The cultural context here amplified this process, and manga is a way to respond to these intimate questions with the awareness of such particular cultural context that I was, at the same time, learning. For me, the manga portrays these deviations, and it functions also as an attempt to alter the parameters between the intimate and the normative. Science-fiction and fantasy are fields, which portray alternatives for prevailing conditions and that is why I gravitate to those fields.    The character, or silhouette, of pompom emerged at the intersection of various intuitions when we were preparing the residency project before coming to Japan, and then it solidified during the first days of work in TOKAS. The initial motivation of the project was to be in physical contact with the hypermobility of Tokyo, but with the wish not to enter into direct impact, but rather via fictional leverage, a space/spacing of/through characterization, of detachment from the raw cultural face to face. We thus thought of creating a ‘character’. Earlier we had pondered the possibility of working from the figure of the astronaut, but we abandoned the idea quickly because it was historically and culturally too charged. In parallel to the research prior to the residency on Tokyo urban infrastructures, I began to take an interest in the representation of the city in Japanese painting, cinema, and manga, in order to collect various modes and regimes of representation of the megalopolis’ movements. It was at this point that the idea of ​​addressing/citing/approaching manga culture came to the fore. We then had to think of the character design in terms of soft encounters, not appropriation. We also wanted to work on the cloudy, the hybrid, the androgynous, on the floating and moving. Finally, we went to buy a wig in Akihabara for a test. And pompom appeared. That was it, in the western normcore contemporary clothes and only with the addition of the blue wig, in a state of becoming, almost manga... The simple gesture was enough, the wig operated like a touching point.      In the same idea of implementing a cautious, soft, wishfully subtle, and non-intrusive encounter with the city and Japanese culture, Vincent proposed to shoot the videos with a lens that would permit the environment to be slightly indirect, a bit out-of-focus. It was intended to address at the same time the awareness of the ever-present risk of colonialistic capture but also the uncertainty and fragility, maybe the promise-to-fail of the encounter. It would also trigger a dreamlike ambient that would allow the poetics of multitemporality and diffraction of the here-and-now-ness of the performance. Mika: After seeing your performance in Vienna, it is remarkable that, like pompom in the video, your performance/choreography doesn’t present your face. Your eyes are covered by the wig too, and therefore the gaze doesn’t work properly. People see your performance, but it seems that they don’t see your presence or they try to ignore it more or less. One of the audience members put it as frictions of presence happening in between fiction and reality. At the same time, for me, it is very interesting to see how you come back to ‘reality’ by taking off the wig and smoothly mingling with the crowd. But, inside the manga, we see pompom’s face and communication with a small creature. So, I want to hear more about the collaboration with Nao since, as far as I know, you are the first one to work with a professional manga-artist to produce an actual manga in relation to your choreographic practice. Simo:  The performance is part of the work but the work can be shown also without it. In Japan we received the feedback that the work opens a new kind of way of looking at manga, because of how the material relations between the video, manga, and live performance are displayed. This kind of feed-back felt very meaningful for the whole project. For me it is a continuous dialogue and an experimentation of those relations, which can be also frictions.    During making the manga, my role was to choreograph it so to speak. Nao responded with sketches to the script, which I made with Vincent, and through the sketches, which we then discussed in more detail. I especially remember the discussions on how we could portray that kind of experience and perception of movement, on which my choreographic thinking is based. These questions allowed our dialogue to go further, for example to the history of how manga-artists have responded to the development of cinema when it comes to capturing movement. Our collaboration with Nao continues; we are now working on the second episode of the Astrotrilogy and I have already received some sketches. It is always exciting to open those images and to see how the project is moving.      ri:vr, Paris, 2019Photo: Vincent Roumagnac Mika: I’m very curious that you are still collaborating with Nao for other episodes of the Astrotrilogy and I’m looking forward to seeing how the collaboration will develop further from the first set in Tokyo. Could you also tell me about the two other episodes in Paris and San Francisco? This conversation also reminds me that girls’ manga, which especially in the 1970s incorporated Western aesthetics and narratives of homosexuality or transsexuality often within a science fiction grammar, developed through representations of other cultures, as I imply in the exhibition “When It Waxes and Wanes”. Your starting point is the place, Tokyo, which has been represented in different media. As you relate differently to different spaces, how are you dealing with Paris and San Francisco as a specific space in your choreographic practice and collaboration with two other artists? Simo: I work with context-responsive or place-responsive starting points, which in the following episodes of the Astrotrilogy has meant to take in and examine the places in which the process ‘takes place’ where we’ve been working. In Paris, the second episode was made in the residency in Cité internationale des Arts and then the third we processed during a one-month trip to San Francisco and California. In Paris, the piece called ri:vr emerged through the entanglement of planetary movements, torrential satellite-bound data flow, and cellular becomings conditioned by algorithmic wire-speed. In other words ri:vr presents an altered body as an incoherent place produced by the collision of various streams, fluxes and flows in presence: those aquatic and glaucous beings along the riverbank near the residency, and those running through the surrounding and incorporated electrical and algorithmic systems. The project also weirdly revisited the myth of a monster with living venomous snakes in place of hair. åstra, San Francisco, 2020Photo: Vincent Roumagnac     In San Francisco, the project called åstra dives into the history of planetary dances transforming them towards interplanetary dance and åstra incorporated the queer place-specific histories and computational components of Silicon Valley as well. In all these episodes, I work from the position of a guest temporarily visiting certain conditions, so I’m always trying to find a way to inhabit the contextual material circumstances by being critically aware of that position. This examination of the contextual and material circumstances many times produces traces, documents, and gestures that can be processed into an artwork. I have worked in these places with Vincent and we keep the dialogue open with Nao via emails. I will meet Nao now in March in Tokyo, and we will go through the manga for the second episode, which is exciting. So in the end, we will have three manga books in the Astrotrilogy project. We are looking for possibilities to install all three parts simultaneously and expose and share the project with the audience like that. Tokyo, where we started the project, would be a meaningful place to do that. åstra, San Francisco, 2020

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Zine Matters: Self-Publishing from Prague to Vienna
#Archive Zine Matters: Self-Publishing from Prague to Vienna.26.02. — 15 .03. 2020 Opening: 26 February, 18:00 - 22:00.Curators: Deniz Beser & Frantisek Kast.Artists // Zines:  Anytime, BFLMPSVZ, Franz the Lonely Austrionaut, Deniz Beser, Nina Buchner, Juliána Chomová, Tonto Comics, Murmel Comics, DIN, Eclect, Nikola Hergovich, Heyt be! Fanzin, Eva Fenz, Fettkakao, Halb Format, Max Freund, Binta Giallo, Sigmund Hutter, KABINETT, Katja Hasenöhrl, Infoladen, Magdalena Kreinecker, Lačnit Press, Lucie Lučanská, Epileptic Media, Lenz Mosbacher, Miloš Hroch, Nýbrž, Nina Prader / Lady Liberty Press, Kudla Press, Well Gedacht Publishing, Rakısquad, Linda Retterová, Vinz Schwarzbauer, Tessa Sima, Soybot, Multiple Spirits, Kristian Ujhelji, Illustration studio UMPRUM, Mass Control Super Violence, Nase Zine, Trust In Zines, Vienna Zines and many more… .  Quatro Print Showroom , Joanelligasse 9,1060 Wien.Zine Matters: Self-Publishing from Prague to Vienna is curated by Deniz Beser (Director of Fanzineist Vienna Art Book & Zine Fair, and artist and self-publisher); and Frantisek Kast (Co-director of Phasebook: Prague Art Book & Zine Fair and co-founder of Page Five Art Bookstore). The conceptual framework of the exhibition was shaped by the Czech printing house Quatro Print, Beşer and Kast’s desire to establish a bridge between Austria and Czech Republic through fanzines, and together they took the initiative and focused on contemporary zine production in these countries.No matter different geographies, diverse cultures and languages, there are artists and small publishers who speak the same code: it is printed on paper and materialized in Zines. But one can say, why not to bring some neighbouring countries any closer - and precisely it is the goal of our event Zine Matters. Zines are the most flexible, micro and DIY form of independent publishing. They are mostly produced by photocopying, but recently, other printing techniques such as risography, screen printing and printing without banderole have been used in their production. These zines do not have high level commercial concerns, and they are usually self-published. The highest values is in the message they carry: such publications are voices of artists and devoted fans, whether it is some obscure music, art fantasy literature or just paper.New wave of self-publishing in past two decades is made by artists who compose these types of mainly visual-symbolic zines; they are also produced by students attending the universities of fine arts, and by people who come from diverse socio-economic backgrounds. The zines ’ themes in Vienna and Prague proceed in a context focused on politics, sports, and comics, and they create a whole complex infrastrucutre of alternative media - outside of the mainstream world of mass media, art, and politics. Those printed zines with DIY spirit constitute a great alternative to the current dominant culture. As the political statement is performed by the producing your own media.Supported by: Quatro Print , Fanzineist Vienna Art Book & Zine Fair  , PhaseBook: Art Book & Zine Fair Prague) and Page Five Art Book Store

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Exhibition 🌟When It Waxes and Wanes🌟
#Editorial, #Archive Date: 9th February - 8th March 2020 Venue: Vereinigung bildender Künstlerinnen Österreichs (VBKÖ, Vienna AustriaWith: Mai Endo, Dew Kim (aka HornyHoneydew), Ontayama, Fuyuhiko Takata, Simo Kellokumpu (in collaboration with Vincent Roumagnac and Nao Yazawa), Rosa Wiesauer Curator: Multiple Spirits - Mika MaruyamaDesigner: Aki NambaSupported by: ARTS COUNCIL TOKYO (Tokyo Metropolitan Foundation for History and Culture) The exhibition When It Waxes and Wanes consists of works by contemporary artists and historical materials that have been related to art (and queer feminism) movements and popular but marginalized cultures, especially since the late 19th century up to the present. They feature interactive and affective expressions by means of re/appropriations of desires, gazes, aesthetics, dramas, sexualities, performativities and critical readings that have emerged from transcultural and socio-political encounters, occasionally involving misunderstandings, misinterpretations, and misdeliveries resulting from recontexualizations away from their original contexts. This research began thorough an examination of the historical but less known connections between Japanese feminism movements and Western art at the beginning of the 20th century. In this period, magazines in Japan promoted the social awareness of the conditions of being a woman particularly in relation to the internal and external forces of Westernisation, while in Austria VBKÖ lobbied for the artistic carriers of women artists. The examination has expanded from an interest in the invisible and regional narratives into interdisciplinary tropes of gender-related references, representations and issues as well as the budding power of queering normative histories and narrations alongside the exclusions and oppressions inherent in them.   The exhibition especially focuses on the role of distribution of printed material and the circulation of images and aesthetics through media technology, not only as cultural but also as socio-political and often economical apparatus of our societies. Employing visual and performative codes such as decorations, color transparencies and gradations, and non-linear temporal axes, it explores the interrelationships of art movements in the 19th and 20th centuries, the processes of modernization of non-Western cultures, Japanese girl’s culture after WW2, and the queer cultures under these influences. By doing so, it aims to elicit the parallel relationships dwelling in images and the potentialities of transcultural readings, as well as the genealogies that engender sensations and intensities that pass through bodies. Photo by Claudia Sandoval Romero ARTIST BIOGRAPHY Mai Endo, Study (Kagaminowatari / Hirefurinomine / Omimizunoko Choe Chung / Dojojiengi /Matsura Choja / Matsurasayohimesekkonroku), 2019 Mai Endo is a Japanese artist and actor based in Tokyo. Her work materializes through multiple forms including performance, video, and photography. In her performance piece, "I Am Not a Feminist!" (2017, Goethe-Institut Tokyo), she used her own marriage contract, aiming at transforming the suppressed Japanese marriage system into a play. She studied at the Academy of Fine Arts Vienna under Prof. Marina Gržinić as the exchange program in 2018, and currently, she is a doctoral student at Tokyo University of the Arts. In 2018, she started a queer art zine Multiple Spirits with Mika Maruyama.http://maiendo.net/ Dew Kim (aka HornyHoneydew), Purple Kiss ♡​, 2018 Dew Kim (aka HornyHoneydew) creates fictional stories by collecting languages and images that proliferate on the Internet and flourish in queer subcultures. Through assemblages of physical and nonphysical objects like moving image and sound, Kim imagines new worlds and environments. He transforms his body into an object in order to visualize and describe what it means to be queer. Dew has had solo exhibitions at TEMI Artist Residency (Daejeon), Archive Bomm (Seoul), and Art Space Grove (Seoul). Also, he exhibited work at ICA (London), Camden Arts Centre (London), Haus am Lützowplatz (Berlin), and Grey Projects (Singapore). He graduated from Royal College of Art, MA Sculpture (2016), and completed the residency programme at Cité Internationale des Arts, Paris (2015), and PILOTENKUECHE, Leipzig (2017). He is currently working at Seoul Art Space Geumcheon, Seoul.www.hornyhoneydew.com Ontayama, FAITH, 2019 ONTAYAMA is an artist duo of Niwako Onta (Pyonnurira) and Takuya Yamashita, who have also been active, respectively, as manga artist and illustrator, and artist. Its solo exhibitions include ONTAYAMA (Maison Shintenchi, Nagoya, 2019) and ALL NIGHT HAPSTAMP (HAPS, Kyoto, 2019).http://blog.pyonnu.com/http://takuya-yamashita.com/https://www.instagram.com/ontayama/ Fuyuhiko Takata, MANY CLASSIC MOMENTS, 2011 Fuyuhiko Takata has expressed themes as diverse as religion, myth, fairytales, gender, trauma, sex, and the BL (“Boys’ Love“) manga sub-genre, in humorous, occasionally erotic videos with a pop sensibility. Dissecting, commenting on, and exaggerating universal human themes in unconventional ways, Takata’s works look absurd but are in fact meticulously composed. Born in 1987, Hiroshima, Takata currently lives and works in Chiba. He was showcased solo at Art Center Ongoing (Tokyo, 2012, 2014 and 2017) as well as at Kodama Gallery (Kyoto, 2013 / Tokyo, 2016). He has also participated in Memento Mori - Eros and Thanatos (Shirokane Art Complex, Tokyo, 2013), MOT Annual 2016: Loose Lips Save Ships (Museum of Contemporary Art Tokyo), Bodyscapes: New Film and Video from Japan (Royal College of Art London et al., 2018-2019), MAM Screen (Mori Art Museum, 2019), and more.http://fuyuhikotakata.com/ Simo Kellokumpu in collaboration with Vincent Roumagnac and Nao Yazawa, Pom Pom, 2018 Simo Kellokumpu is a Finnish (born in Lapland) artist, choreographer, and researcher based in Helsinki. He received his DfA (Doctor of Arts) from the Performing Arts Research Center, Theatre Academy Finland in 2019. His artistic works examine the choreographic relations between corporeality and materiality in various scales and contexts. His work operates in the entanglement of contemporary speculative fiction, interplanetary culture, and queer(ing) space. Kellokumpu has been collaborating with the French artist and researcher Vincent Roumagnac since 2010, and he is a founding member of the Q̶͈̬̿͝l̴̛̬̝̒o̵̰̍̔ǘ̴̼ḓ̷̟̓̅s̷̻̦̆Q̸̠̿͒u̷͓͚͊̽A̸̛̘͝r̷̖͈̀͝ṭ̶̏͘z̶̩̩͛ research cluster with Outi Condit and Vincent Roumagnac.www.simokellokumpu.orgVincent Roumagnac is a French-Basque theatre artist and researcher based in Helsinki and Paris. His work materializes through multiple forms such as installations, performances, and videoscenic acts. Roumagnac is interested in the way the notion and the practice of the “stage” evolve according to the change of climatic and techno-ecological conditions. He is involved in investigative and transdisciplinary processes that implement the connections between art and research. Since 2010 he collaborates with Finnish choreographer Simo Kellokumpu and since 2012 with French visual artist Aurélie Pétrel, with whom he is, in 2020, winner of the Villa Kujoyama Residency prize. From 2016 to 2018 he co-directs the weSANK research platform in collaboration with the architect, curator and researcher Emmanuelle Chiappone-Piriou. In 2019 he launches with Outi Condit and Simo Kellokumpu the artistic research cluster Q̶͈̬̿͝l̴̛̬̝̒o̵̰̍̔ǘ̴̼ḓ̷̟̓̅s̷̻̦̆Q̸̠̿͒u̷͓͚͊̽A̸̛̘͝r̷̖͈̀͝ṭ̶̏͘z̶̩̩͛. He is currently conducting a doctorate in artistic research at the Performing Arts Research Centre - Uniarts Helsinki.www.vincentroumagnac.com/Nao Yazawa is a Japanese manga-artist born in Tokyo, and living in Kawasaki City. Her career started with Korokoro –comic magazine as Shonen mangaka, and she has also worked with PyonPyon and Chao magazines. Her most notable series is shojyo-manga Wedding Peach (1994-1996, Concept by Sukehiro Tomita), which was made into an anime series of the same name, and was published worldwide. She is also known for her other manga-works, for example Nozomi (2003), Mizuki (2010), Moon and Blood (2011 – 2014) and Shinku Chitai/ The Isolated Zone (1988 - 2011). She works with various sorts of manga and has given many workshops in Europe and the US. She is currently also teaching Manga in English in Tokyo, at Manga School Nakano.https://naoyazawa.deviantart.com/ Rosa Wiesauer, Transcending Fantasy, 2019 Rosa Wiesauer is an artist, seamstress and art educator based in Vienna. Currently, she is finishing her Fine Arts studies at the Academy of Fine Arts in Vienna where she's in the department for video and video installation supervised by Dorit Margreiter. In her performances and videos, as well as occasional curatorial practice, she deals with (trans)femininity, identity politics, witchcraft, dating and Japanese pop-culture. She is also part of the performance collective House of Empress, which explores queer, femme and transgender identities through drag aesthetics, theatre, dance and other performative techniques.

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#Archive

🌟HAPPY NEW YEAR 2020🌟
#Blog, #Archive 🌟Frohes neues Jahr 🌟  🌟謹んで新春のお慶びを申し上げます🌟🛸Wishing you all happiness and peace 🛸We enjoyed the year 2019 a lot with beautiful people, meetings, encounters, discussions, communities, and exchanges, and want to thank you all who supported us 🌻  Looking forward to new moments full of fun, happiness, excitement, and thrill this year 🌷 昨年は新たな出会いが満載の一年でした💫  今年もどうぞよろしくお願いいたします🐭

#Editorial

#Learning

抄訳: キンバリー・クレンショー『人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評』(1989)
#Editorial, #Learning 根来美和と丸山美佳による現代の芸術実践に重要な論文やテキストの勉強・研究・翻訳プロジェクトの第一弾は、黒人弁護士であり社会運動家のキンバリー・クレンショーの“インターセクショナリティ”についての論文「人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評 (Demarginalizing the Intersection of Race and Sex: A Black Feminist Critique of Antidiscrimination Doctrine, Feminist Theory and Antiracist Politics)」(『The University of Chicago Legal Forum 140』 139-167頁 、1989年)。以下は要旨と抄訳です💫 🌟キンバリー・クレンショーについて🌟1959年生まれ。コロンビア大学ロースクールおよびカリフォルニア大学ロサンゼルス校の法学部教授であり、公民権、ブラック・フェミニズム、人種問題、人種差別、性差別、および法律の分野で執筆を行っている。とくに人種差別と性差別のなかで見落とされていた黒人女性と法律の問題を“インターセクショナリティ”の問題として語ったクレンショーの研究は、偏狭な反人種差別主義やホワイト・フェミニズムを批判し、その後の人種と性差別の言説や行政に大きな影響を与えた。以降、階級や人種、性的指向、年齢、宗教、信仰、障害、ジェンダーなど複数の要因によって生み出される抑圧や支配、差別のシステムがどのように構築され、複雑に関係しているのかを導き出す研究が現在まで進められている。 🌟論文アブストラクト🌟経験や分析の分類において、人種とジェンダーを相互に排他的なカテゴリーとして扱う傾向があるために、ある問題が生じている。本稿は、差別禁止法において優勢である単軸的な枠組みがこの傾向を存続させ、さらにはフェミニスト理論や反差別主義政治にもその枠組みが反映されていることを考察する。ここでは黒人女性に焦点をあて、彼女たちがいかに理論的に消去されているのか、また、単一の軸しか考慮出来ない枠組みがいかにフェミニストや反人種差別者の分析を拡張する努力を弱体化させているのか、その理論的限界を明らかにしたい。さらに単軸的な枠組みの教義的現れを考察し、それがフェミニスト理論と反人種差別主義政治における黒人女性の周縁化にどのように作用しているかを論じる。 フェミニスト理論と反人種差別主義政策の双方が個別の経験を前提とし、たいていの場合それらが人種とジェンダーのインターセクショナリティ(交差性)を正確に反映しないため、黒人女性はしばしば両者から排除されてきた。両者の言説が黒人女性の経験や懸念を包含するためには、枠組み全体を見直し一新する必要があるだろう。本稿では、インターセクショナリティを考慮しないために、黒人女性に関して正当に展開されたいない理論と政治の例として、レイプと分離領域イデオロギーに対するフェミニスト批判、そして黒人コミュニティにおける母子家庭を取り巻く公共政策についての討論を取り上げる。 🌟論文目次🌟1. 反差別の枠組み  A. インターセクショナリティの経験とそれに対する教義的応答  B. 教義的にインターセクショナリティを扱うことの重要性2. フェミニズムと黒人女性:「私たちは女ではないのか?」3. いつどこに入るか:性差別に対する分析を黒人解放主義政治に取り込む4. インターセクショナリティを取り入れ、フェミニスト理論と反人種差別主義政治を拡張する 1. 反差別の枠組み A. インターセクショナリティの経験とそれに対する教義的対応p.145 (...)多重に不利な立場にある階級が他の何か一つのことで不利な立場にある者を代表することを拒否することは、確立されたヒエラルキー内の機会の分配を再構築する努力を打ち負かし、改善のための救済を控えめな調整へと制限してしまう。 その結果、雇用システム全体に異議を唱えるためにすべての被差別者を結びつける“ボトムアップ”アプローチは、間違ったことに対する限られた見方と利用可能な対策についての狭い視野によって排除されてしまう。 このような”ボトムアップ”でインターセクショナルな表現が日常的に許されていたとしたら、[人種差別と性差別を受けている] 従業員たちはそのヒエラルキーの中で各々の被差別者が個別に特権の源を保護しようと探し求めるよりも、そのヒエラルキーに集団で挑んだほうが、より獲得するものがあるという可能性を受け入れるかもしれない。 p.149  この明らかな矛盾 [黒人女性は黒人が受ける人種差別においては女性であるからこそ黒人を代表をできず、性差別においては黒人であるからこそ女性を代表できない]は、単一の問題として分析することの概念的限界の別の現れにすぎないのであり、それこそがインターセクショナリティが課題とするものである。 重要なのは、黒人女性はあらゆる方法で差別を経験する可能性があり、この矛盾は彼女らの排除の主張は一定方向にしか進まないという私たちの仮定から生じているということである。 四つすべての方向に出入がある交差点の通行に例えてみよう。 交差点の往来のように、差別は一方向に流れるかもしれないが、別の方向にも流れる。 交差点で事故が発生する場合、それはあらゆる方向から、時にはすべての方向から来る車によって引き起こされる可能性がある。 同様に、黒人女性が交差点(インターセクション)にいるために負傷したとするならば、彼女の傷は性差別または人種差別に起因する可能性があるのだ。 B. 教義的にインターセクショナリティを扱うことの重要性 p.152 差別に関するこの優勢な考えが狭い範囲しか考慮せず、厳格に定められたパラメーターでは経験を説明しきれないような人々を除外する傾向にあるにも関わらず、この[単一の問題として分析する]アプローチは様々な問題に対処するために適切な枠組みであると見なされてきた。人種やジェンダー、階級における特権を享受する者以外の人々の生活に注意を払わなくとも、性差別や人種差別に関する有意義な議論は可能であるという意見のもとに、多くのフェミニスト理論において、また反人種差別主義政治においてもある程度は、この枠組みが反映されている。その結果、フェミニスト理論と反差別主義政治のどちらもが、部分的に、人種差別を中流階級の黒人または黒人男性の身に起こったことと同一視し、また性差別を白人女性に起こったことと同一視しながら体系付けられてきたのだ。 フェミニストのコミュニティーと公民権を訴えるそれにおいて、歴史的また現代における論点を見てみると、両コミュニティーが差別に関する優勢な考えを受容しているがために、それらがインターセクショナリティの課題に対処するために適切な理論や実践の発展を妨げてきたことが分かる。差別を単一の問題として扱うこの枠組みを適用すると、彼女たちを有権者の一員だと主張するまさにその運動のなかで黒人女性が排除されてしまうだけでなく、人種差別や家父長制に終止符を打つという幻の目標を達成することがより困難になる。 2. フェミニズムと黒人女性:「私たちは女ではないのか?」 p.154 黒人女性に対するフェミニスト理論の価値は軽視されているが、なぜならその理論は白人の人種的文脈から発展したものであるからであり、そのことはめったに認知されることはない。実際に有色人女性は見落とされているだけでなく、その排除は白人女性が女性たちのために女性として話すときに強化されている。権威ありげな普遍的な声 ー人種やジェンダーが関係ない客観的であると見せかけているたいていは白人男性の主観性ー は、ジェンダーを除けば、同じような文化、経済、社会的特徴を共有する人々に譲渡されるだけである。フェミニスト理論が家父長制やセクシュアリティ、または分離領域イデオロギーの分析を通して女性の経験を描写しようとするとき、人種の役割は見落とされがちである。フェミニストたちはしたがって、自分たちの人種が性差別のいくつかの側面が軽減されるように機能しているのかを無視し、さらには、それがしばしば特権を与え、他の女性を支配する一因となっているのかを無視しているのだ。 その結果、フェミニスト理論は白人的なもののままであり、非特権的な女性に取り組むことでその分析を拡大し深化させる可能性は未だに実現されていない。 p.155-156(...)フェミニストたちは、本質的に相違するものとして男性と女性に割り当てられた社会の役割を伝統的に正当化してきたステレオタイプを特定し批判することによって分離領域イデオロギーを暴き解体しようとしてきた。しかし、女性の従属を行うイデオロギー的正当化の仮面を剥ぐための試みは、黒人女性の支配に関しての見識をほとんど示さない。多くのフェミニストの洞察の根拠となる経験的基盤は白人のものであるため、そこから引き出される理論的記述はせいぜい一般化されすぎているか、しばしば間違っている。 (...) しかし[分離領域イデオロギーの]“観察”は人種差別と性差別の相反する流れによって生み出される例外的なことを見落としている。黒人コミュニティにおけるジェンダー支配のイデオロギー的説明を発展させる努力は、横断的支配力がどのようにジェンダー規範を確立し、黒人従属の条件がこれらの規範へのアクセスを全面的に妨げているかを理解することから始めるべきである。p.156-157 家父長制のイデオロギー的かつ記述的な定義は、大抵の場合白人女性の経験を前提としているため、フェミニスト文学から知見を得ているフェミニストやその他の人々は、ある間違いを犯しているかもしれない。つまり、家族やその他黒人組織における黒人女性の役割が、白人コミュニティーの家父長制によくある現れと必ずしも共通する訳ではないために、どういうわけか、黒人女性が家父長制の規範から免除されていると思い込んでしまうのだ。例えば、白人女性の労働力率とは比にならないほど多くの黒人女性が従来より家庭の外で働いてきた。家父長制の分析が白人女性が仕事場から除外されてきた歴史を強調するならば、黒人女性はこのような特定の性差に基づく期待から免除されてきたと推論できるかもしれない。しかし、黒人女性は働かなければならないというこの事実こそが女性は働くべきではないという規範と相反するため、黒人女性の生活において個人的かつ感情的な人間関係の問題が度々生じてしまう。したがって、黒人女性は伝統的には女性が負わない責任を頻繁に負わされているだけでなく、黒人コミュニティにおいてこれらの役割は、そのような規範に従った生活ができない黒人女性の失敗と見なされるか、あるいは黒人コミュニティーに対する人種差別の惨事の異なる現れと見なされる。そういうわけで、黒人女性は双方から重荷を負わされているのである。これは、白人の経験に基づいた家父長制の分析では理解することのできない、インターセクショナリティが内包する数ある側面の一つである。 p.158-160 女性のセクシュアリティに対する男性権力の現れとしてレイプに単一的に焦点を当てることは、人種的暴力行為の武器としてレイプが使用されるということを覆い隠す傾向がある。黒人女性が白人男性にレイプされるとき、それは一般的な女性としてではなく、とりわけ黒人女性としてレイプされている。つまり、黒人女性の女性性は彼女らのセクシュアリティーを人種差別的支配に対して脆弱化させる一方で、黒人であることは効果的に彼女らのあらゆる保護を否定するのである。この白人男性権力は、黒人女性をレイプした白人男性の有罪判決はほぼ考えられなかった司法制度によって強化されている。 要するに、貞操という性差別的期待と性的乱交という人種差別的仮説が結合してしまっているため、それが黒人女性が直面する他とは異なる一連の問題を生み出している。 (...) その結果として、黒人女性は、理解できないことではないがおそらく、性暴力の問いを法廷で争う試みに疑いを持って見ている黒人コミュニティーと、白人女性のセクシュアリティーに焦点を当てることによってこれらの疑いを強化するフェミニストのコミュニティーとの間で板挟みにされている。この疑いは、白人女性のセクシュアリティの保護がしばしば黒人コミュニティーを弾圧する口実であったという歴史的事実によってさらに拍車がかかっている。今日でさえ、反レイプが取り組む課題は反人種差別の目標を阻むかもしれないと恐れる人がいる。人種とジェンダーの交差(インターセクション)によって生み出されるパラダイム的な政治的かつ理論的なジレンマである。つまり、黒人女性は、まずは黒人女性の経験を作り出し次にそれを葬り去るように結びついたイデオロギー的かつ政治的風潮の間に挟まれているのだ。 3. いつどこに入るか:性差別に対する分析を黒人解放主義政治に取り込む p.160 19世紀の黒人フェミニスト、アンナ・ジュリア・クーパーは、人種の優位性に対処するために家父長制の明晰な分析を取り入れる必要性を評価する上で有益な言葉を残している。クーパーは、黒人の指導者や代弁者をしばしば批判し、彼らが人種のために語るに留まり、黒人女性のために語ることに失敗していると指摘した。(...) クーパーは、反撃した。「黒人女性だけがこう言うことができるのです。私がその時間、その場所に入ることを許された時、、その時その場には、私と共に全てのニグロが入ることができるのだ、と。」 p.162 問題は、アフリカ系アメリカ人が単により重大な課題に巻き込まれているということではない。ブラック・フェミニズムを敵対視する努力がこのような思いこみに基づいているとしても、黒人コミュニティの問題を正当に認識すれば、性の従属性が多くの黒人女性の貧窮した状況に大きく影響を及ぼしていることや、それゆえにこの問題に取り組む必要があることが明るみになるだろう。さらに、単一の論点しか取り上げない枠組みに対する前述の批判が、人種差別に対する苦闘が性差別に対する苦闘とは区別できるもので、ましてや性差別より優先視されていない、という主張を厄介なものにしてしまう。一方で、黒人女性が黒人男性と共に経験する人種的他者化の政治のせいで、黒人フェミニストの意識がホワイト・フェミニズムの発展を手本にできないでいることも事実である。つまり、家父長制が黒人コミュニティにおいて根付いていることは明らかであり、それが黒人女性を脆弱な立場に置くような支配の根源を示しているにも関わらず、彼女たちが身を置く人種的な文脈では、黒人男性に反抗するような政治意識を生み出すことは難しい。 4. インターセクショナリティを取り入れ、フェミニスト理論と反人種差別主義政治を拡張する p.166 人種による従属を特徴付ける制約と条件から黒人を解放するための真の努力がなされるとき、黒人コミュニティのニーズを反映することを主張する理論と戦略は、性差別と家父長制の分析を含まなければならない。同様に、フェミニズムが非白人女性の切望を表したいと願うときは人種の分析を含める必要がある。黒人解放主義政治もフェミニスト理論も、その運動が各々の構成要素であると主張する人々のインターセクショナルな経験を無視することはできない。黒人女性を含めるために両運動は、明確で特定可能な原因(たとえば、黒人の抑圧は人種に基づく場合において重要であり、性別に基づく場合は女性であること)に関連する場合にのみ経験を重要視するという以前のアプローチから距離を置く必要がある。両実践は、困難の原因に関係なく取り組むべき人々の人生の機会と状況を中心とすべきなのである。

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マルスピ手作り部発足🌟
#Blog, #Archive マルスピが90年代の手作り雑誌からも影響を受けていることから、オリジナルグッズを作りたいと思っており、ついに不定期開催の「マルスピ手作り部」を発足させました 🌻 第一弾は、黄金町の共有アトリエで作品制作をしているマルスピvol.1に作品を掲載してくださった常木理早さんのアトリエをお借りして、シルクスクリーンに挑戦🍄 そしてできたのが、こちら🌟 蓄光塗料のシルクスクリーンなので、暗闇でやんわり緑色に光る優れものです💫🌌 ちなみに、右はマルスピの創刊号にも使われたイメージ(青鞜の創刊号のアプロプリエーションです)とウィーン分離派のフォントを用いたマルスピのロゴで、左は与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)の藤島武二による表紙イメージです。ハートの中で髪がみだれる女性像に、矢が吹き出ているイメージです。 この書の体裁は悉く藤島武二の衣装に成れり表紙みだれ髪の輪郭は恋愛のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり 日本でのミュシャ展に合わせて発売された大塚英志『ミュシャから少女まんがへ 幻の画家・一条成美と明治のアール・ヌーヴォー』(2019年、角川新書)は、私たちにとってもとてもインスパイアリングなものでしたが、20世紀の女性の表象において重要な一つの要素は、着物用のまとめ髪からほどかれた "髪のみだれ"。 与謝野晶子は当時の女性にとって禁忌だった恋愛について、髪をみだすという新たな表象とともに挑戦したんですね 🍬少女文化でも長髪がなびいているのはお馴染みですよね 💇‍♀️ そんなことを踏まえて作ったオリジナルトートバックは数量限定で販売中です🌈 マルスピ🌟オンラインストア * * ちなみに、黄金町エリアマネジメントセンターが運営するライブラリースペース「Koganecho-Library (K-Library)」では、アーティストコレクティブのBack and Forth Collectiveとコラボレーションしてジェンダー関連の図書が集められています❤️ * * 黄金町バザール2019−ニュー・メナジェリーで作品展示をしていた、常木理早さんの作品(要田伸雄さんと共同)はこちら👇

#Archive

BETWEEN THE SHEETS at VBKÖ booth, PARALLEL VIENNA
#Archive Multiple Spirits will take part in BETWEEN THE SHEETS by VBKÖ (Vereinigung Bildender Künstlerinnen Österreich) project statement in collaboration with Mika Maruyama and Aki Namba. PARALLEL VIENNADate: September 24-29, 2019Venue: Lasallestraße 5, A-1020 ViennaWith: Ag16 | Akitonixin | Are We There Yet | Academy of Fine Arts at the University of the Arts Helsink | Elke Auer | Mieke Bal | Veronika Burger | Khadija von Zinnenburg Carroll | Casco | Louise Deininger | Veronika Dirnhofer | Discipline Journal |  Sophie Dvorak & Andrea Salzmann | Hilde Fuchs | Minna Henriksson | Hotel Butterfly | Nina Höchtl | Melanie Jackson | Vinko Nino Jaeger | Anna Kinbom | Karolina Kucia | Krёlex zentre | Eisa Jocson |  Katharina Luksch | Multiple Spirits | Amanda Piña/ nadaproductions | Queer Southeast Asia: A Literary Journal of Transgressive Art | Mariel Rodriguez | Rab Rab Press | Claudia Sandoval-Romero | Deniz Sözen | Third Text | Valiz | VBKÖ Archives | Christina Werner | Angela Wiederman | Julia Wieger | Women's Resource Center Armenia | Zaglossus, & more

#Archive

Vienna Art Book Fair #1 at dieAngewandte
#Archive Multiple Spirits will take part in Vienna Art Book Fair #1 with artist Yoshinori Niwa🌟 Venue: dieAngewandte - University of Applied Arts ViennaVordere Zollamtsstraße 71030 ViennaLocation/Map Date and Hours:Friday, 04 October 2019, 5 pm - 9 pmSaturday, 05 October 2019, 1 pm - 7 pmSunday, 06 October 2019, 1 pm - 7 pmFree Entry! Hope to see you there!

#Editorial

#Conversation

ヴェニス・ビエンナーレ2019: 境界線との向き合い方 (東アジアのパビリオン編)
#Editorial, #Conversation  7月の第1週目、キュレーターの根来美和さんとマルスピ編集チーム丸山の二人でベニス・ビエンナーレ2019に行って来ました。根来さんは、4月にウィーンで「日本オーストリア友好150周年」の枠組みで行われた展覧会『Parallax Trading』のキュレーションを手がけており、その政治的な枠組みを逆手に取るかのように、交流-交易を通して紡がれ伝えられていく流動的な文化的アイデンティティーのあり方をテーマにしていました。マルスピとも共通するビジョンもあったりと、展示を見ながら議論していたところ、ビエンナーレ全体の展覧会とともに東アジアのナショナル・パビリオンの違いを通して、どうしても日本の立ち位置であったりその枠組みを考えざるをえなくなりました。 というわけで、マニフェスタに引き続き、批評でもなくレビューでもない会話形式でヴェニス・ビエンナーレ2019について二人の思うところをざっくばらんにお伝えします。  テキストはビエンナーレを観終わった直後の会話の録音を元に加筆修正したものです。会話をしている二人の手元にはビエンナーレのオフィシャルガイドブックの他に、台湾館と韓国館、日本館のカタログ*。この3つのナショナリ・パビリオンが会話の中心になります。 *台湾館のカタログは非売品だけれど、ウェブサイトでダウンロード可能。日本館のカタログは英語版。 丸山美佳(以下🌵):メインの展示「May you Live in Interesting Times」は正直言うと本当に疲れる展覧会というか、キュレーションの失敗なのか展覧会構成の失敗なのか、会場に作品が詰められすぎていた。有名な中堅作家に混じって、多くの若い作家が出展していることが話題になっているように、個別に見たらビデオからペインティング、写真、彫刻と、メディアも幅広くて作品も面白いし、発見も多い展覧会だったとは思う。ただ一方で、コレという方向性がないままに膨大な作品を見せられると、アートフェアとか美術館のコレクション展を見せられているような気分にもなった。根来美和(以下🐬):同じアーティストをアルセナーレとジャルディーニそれぞれPositionA、Bという2つの展示として見せているんだけど、2つの立場を見せる意味があまりなかった気がする。とにかく作品が窮屈に展示されて、もうちょっと各作品を読み込むスペースを観客に与えて欲しかったなあ。全体として特定のテーマあるというよりは、かなりざっくりだけどポストトゥルス時代のアートの社会的有効性を信じると言う姿勢。 ...... 二人のベスト・ナショナル・パビリオン:監獄を読み直すトランス・パンク・クィアな台湾館『3X3X6』アーティスト: シュー・リー・チェンキュレーター: ポール・B・プレシアード 🌵:展示を観終わった瞬間にカタログを手に入れようとした台湾館だけれど、他のパビリオンと比べてもとてもよく出来ていた展示だったよね。サンマルコ広場近くの台湾館がずっと使用してきた建物が実際に牢獄であったという文脈を踏まえつつ、テクノロジーとセクシュアリティーをテーマに、アーティストとキュレーター両者の専門分野が存分に発揮されていた展示だった。どんなジェンダーやセクシュアリティーであっても犯罪者になるかならないかは文化と時代によって異なるということをとても鮮やかに描いていた。🐬:セクシュアリティーを理由に投獄された実在する10人のケースを扱っているビデオインスタレーションなわけだけど、様々な時代と地理、投獄理由のケースを扱っていてその配分もよかったよね。カサノヴァ、サド侯爵、フーコーから始まり2019年現在投獄されている人のケースまで、宗教的な理由から、ポルノ規定やHIV関連、レイプ、カニバリズムなど、あらゆる事象があげられている。で、場所もベニスから中国、南アフリカなど幅があった。🌵:しかも、入った瞬間に身体が感知されてデータに登録されたり、映像作品を観ながらサーチライトによっていきなり身体に光が当てられたりする。ずっと監視されていて、今までイリーガルではなかったのに、いきなりスポットが当てられて「犯罪者」になるっていうか、いきなり検閲されちゃって犯罪者へと変わっていくという、変化しうる境界線の構造が展示空間としても出現していた。 Shu Lea Cheang, 3X3X6, mixed media installation © Shu Lea Cheang. Courtesy of the artist and Taiwan in Venice 2019 🐬:あともう一つ、実際に起こったケースを演者を使ってパロディ化する際に、演者と役柄のジェンダーと人種を撹乱している。例えばカサノヴァ役はアジア系の俳優だったよね。いわゆるボディー・ポリティクス、バイオポリティクスへの言及が、観客の身体も含めた展示空間のナレーションとして完璧に仕上がっていた。人種によって規定されてしまうジェンダー規範と法、まさに現代的な問いだよね。扱う内容のシリアスさに対して、ビジュアルとしては非常にポップでキャッチーな言語を用いているのも良かった。 🌵:身体的な特徴も様々だったし、タトゥーだらけのフーコーとか普通に笑える要素もあるんだけれど、そうゆう錯乱はクィアの常套手段だし、それをしっかりテクノロジーとかグローバル資本主義の流れに繋げていたのも流石だった。あと、こうゆうジェンダーなりセクシュアリティーの問題は西欧的で啓蒙的なものに留まりがちだけれど、そうではなくて、インターネットによってより加速されていく現代的な問題として提示されていた。実際、イランの女の子がInstagramにダンスしている映像を投稿して逮捕されたことに対して、#dancingisnotacrimeとポストしてプロテストすることも展覧会に含まれていたりするしね。 Stills from (左上) CASANOVA X, (右上) B X, (左下) L X (右下) R X, 4K video, 10’00’’, from the film series for the installation 3x3x6 映像が遂行する伝統芸能へのクィア的なアプローチをする韓国館『History Has Failed Us, but No Matter.』アーティスト: ナム・ファヨン、サイレン・ウニョン・チョン、ジェーン・ジン・カイセンキュレーター: キム・ヒョンジン 🌵:時間が足りなくて全ての映像を見ることができなかったのが惜しかった韓国館。3人のアーティスト全員がビデオ作品で、どれも韓国文化圏の伝統舞踊やパフォーマンスについて扱っているんだけれど、そこにジェンダーの問題と東アジア全体の近代化の歴史が関わってくるというもの。タイトルは、イ・ミンジンの小説『パチンコ』の一行目から取られていて、小説は在日の話だけど、要は国家とか移民とか文化における同一化の過程で起こる衝突と混在性みたいなことよね。🐬:韓国館が良かったのは、朝鮮半島の北と南という政治的な状況を扱ってはいるんだけど、それよりも、どのように伝統的文化が外的要素によって消されていくかということと、民族的な伝統文化、伝統舞踊をどう残していくかという、そういうせめぎ合いを近代化する歴史の文脈に落とし込んでいたことだと思う。確かにアメリカの姿は少なくて、どっちかっていうとロシア(ソ連)とか北朝鮮とか共産主義という外的要素が多かったけれど。 🌵:そういう文脈の中で、その南北分断による日本における在日の変化の話とかもさりげなく入れていた。そういった問題を"対国ごとの問題"として区別するのではなく、言語的にも中国語と日本語と韓国語が混じり合っていて、切り離すことができないダイナミックな流れとして表現していた。 🐬:戦前・戦中から戦後にわたって東アジア各地で活躍した韓国の女性舞踊家チェ・スンヒの人生を取り上げたナム・ファヨンの映像作品では、特に一次資料を使ってビデオのナレーションを作っていて、歴史家的にその資料をまとめるのではなく、一次資料の言語をそのまま使っていたからいろんな言葉が混ざっていた。歴史をどう書いていくかという問題にも繋がるんだけれど、その主観性をどこに置くのかっていうことと、大文字の歴史が不可能な時代にいかに過去を現代まで続く物語として書き替えていけるかという、複数の取り組みがなされていたよね。 Hwayeon Nam, Dancer from the Peninsula, 2019, multi-channel video installation, dimensions variable. © Hwayeon Nam 🌵:それを映像でやっていたのは上手だったと思う。ただのドキュメンタリーではなく、断片的な情報を視覚的な要素、例えばナム・ファヨンの作中の「where the strengths come?」という当時の女性(性)の問いは、花と舞踊の振り付けという視覚的な要素で結びつけられていたり。 🐬:それキーワードだったよね。それは結局さ、いま生きているダンサーの身体を使って、その身体がいかに歴史に介入していくかという問題でもある。サイレン・チョン・ウニョンも、戦後韓国で流行した女性だけによる劇団ヨソン・グックの演者とそのコミュニティーを長年リサーチしているよね。女性が男性役を演じる大衆演劇だったわけだけど、近代化の中で消えゆくヨソン・グックの歴史と、性を”演じる”役者の身体を通して、ジェンダー規範からの逸脱や、伝統や近代史に対する従来的な考えを解体している。 siren eun young jung, A Performing by Flash, Afterimage, Velocity, and Noise, 2019, audiovisual installation, multi-channel video, stereo and 5.1 surround sound, dimensions variable. © siren eun young jung 🌵:彼女の場合は、そこにトランスジェンダーであったり、いわゆる"標準的"ではない身体を持つパフォーマーも登場してくる。そういう、現代に残っている/残ってしまっている周縁化された身体の文脈に対しても、韓国館は真摯であった。空間の真ん中でシャーマニズムの儀式を扱っていたジェーン・ジン・カイセンは、消された歴史というか「文化の消失=コミュニティーの消失」を扱っているけれど、それが北では残っていてるということとは何なのか。一方でナム・ファヨンの映像では、朝鮮半島の舞踊が日本とか中国で花開いていた事実と、東アジアの芸術という枠組み可能性と、それをいかに現代の問題として捉えるか。 Jane Jin Kaisen, Community of Parting, 2019, stills from projected film in double-channel video installation, 1h12'22”. © Jane Jin Kaisen 🐬:韓国館の場合は、韓国の中で失われてきた伝統を語りたいのではなくって、むしろその伝統と言われてきたものの周縁で行われている流動的な文化のあり方が表現されていた。伝統的な文化を語るとナショナリズムと結びつきがちだけれど、言いたいのはそういうことではなかった。 🌵:ジオポリティカルな関係の話ではなく、境界線がないジオグラフィカルな影響下にある文化というか。ボーダーがないんだけれど、だからこそ、政治が介入してきてしまって、そこで起こされる否応ない変化含めた流動的な部分を強調していた。 🐬:ネイションステイトの境界線は、歴史的な戦争や植民地支配によって引かれたものでしかないと扱ってるから、いまどうこうという話ではないという立場。あと西と東の邂逅にも触れていて、チェ・スンヒがヨーロッパにいったことによって極東の文化を再発見するとか、そうゆう近代化の伏せんが全て組み込まれている。枠組みを脱構築し続けるというか。その意味で、展示デザインも椅子が等高線みたいに円形を帯びていて、ゆったり液体的だった。 Installation view of Korean Pavilion (左) Hwayeon Nam, Dancer from the Peninsula, 2019 (右) siren eun young jung, A Performing by Flash, Afterimage, Velocity, and Noise, 2019 🌵:曲線の建物のガラスに合わせて透明なカーテンとかも、流動的な空間を演出していた。 🐬:展覧会全体を通して、伝統、文化、ジェンダーにおける固定観念を解体する姿勢、現行の規範や線を超えて進んでいくような姿勢が明快だったし、共感できる場所をしっかり残していた。そういったのに比べると、どうしても日本館はなんだろ、目指されていたもののわりには、アクチュアルなことを感じることができなかった。 面白いのに、ビジョンが共有できなかった日本館『Cosmo-Eggs│宇宙の卵』参加作家:下道基行、安野太郎、石倉敏明、能作文徳キュレーター:服部浩之 日本館入口風景 (撮影:ArchiBIMIng 提供:国際交流基金) 🐬:展示としてすごく綺麗だったけど展覧会における神話の語り方に違和感が残った。土着的なものをどこまで広げられるかという問題だけど、現代的に解釈できる可能性を作らなきゃいけないと思う。それが見えてこない展覧会だった。人間の言葉を覚えた魚とか面白い太古の話をしているのに、その営みがどう現代に繋がっているのかがよくわからなかった。単純化すると、現在の世界中に起こっている危機に対して、アニミズム的なアプローチで、テクノロジーvsネーチャーみたいな対立から脱却した世界への希望みたいなものでしょ。🌵:でもさ、世界的にはもはやテクノロジーと自然を対立させてなくない? ポストヒューマン的なあり方はすでにそれを否定しているし、それからの脱却ってあんまり現代な話ではないように思う。だけど、日本館のテーマは今語られるべきことが全て含まれている。アニミズムとか、共生、共存っていうテーマもそうだけれど、エコロジー、ハイブリティー、市民社会というかモダニティーがない時代というか世界。アンソロポシーン的なものの批判とかもそうだよね。🐬:私たちが生きるモダニティーができてしまった時代を踏まえると、現代ではむしろ法を犯していると思える行為も、事実として認める世界だよね。🌵:神話の世界だからね。でも、ノンヒューマンなリコーダー音楽と、人間と非人間によって織り成される神話に横たわる溝がどうしても気になってしまった。だって、あの展示には人類の気配がなかった。下道さんの一瞬静止画とも見えるような津波石のイメージは人類の尺度を超えている存在としての生だったかもしれないけれど、その時間軸からすると、いわゆるliving creatureはその周辺にいるだけであって、それ以上の存在ではなかったというか。 展示風景 下道基行による映像《Tsunami Boulder》と、安野太郎によるバルーンとリコーダーの様子(撮影:ArchiBIMIng 提供:国際交流基金) …ということで、 二人でカタログを読み進める… 🌵:それにしてもすごいカタログだね。石倉さんによる宇宙の卵のための図解とかめちゃくちゃ面白い。ようは、石倉さんによる創作である宇宙の卵って母体を経ない誕生でしょ。胎盤の中で生命が膨らんでいくのではなく、卵がやってくるのは地上に生命がいなくなったときで、外部から命がもたらされる。人間が卵から生まれてきたそういう説がいっぱいあると。🐬:娘が太陽の下で昼寝をしていたらなぜか受精し、子どもが産まれたとか。🌵:太陽の光で受精とか書いてあるけど、ようはダナエをレイプしたゼウスみたいな話だよね。🐬:ギリシャ神話もそうだけど、基本的に神話って怒りとか嫉妬とかレイプとか近親相姦でできている。で、今回の話は津波で全てが流されてしまった後に残ったものがどうするか。何にも無くなったら天から卵が来る、でも生き残ってしまった場合は、ミラクルを起こして別の生命体を産む。面白いのは、沖縄、奄美とかの土着の文化と、台中とかの文化を扱っていることだよね。でも、こういう説明は展覧会ではなかったよね。それこそ、沖縄の地理的な立場をもっと展示でも説明すべきだっし、沖縄から台湾、中国そしてフィリピンっていうこの流れは重要じゃん。🌵:日本の神話の話だけじゃないのに、確か宮古島の津波石しか展示していなかったよね。そうすると、そういう知識がない人は基本的に日本のどこかの島の話として捉えるよね。🐬:しかも、このカタログのほとんど、特にスクラップページは翻訳されていないけれどいいのかな。ここで書かれている沖縄から東南アジアにかけての神話のコンセプトは、あまり展示に反映されていないというか。結局4人をそれぞれ繋げているのは、co-excistances between human and non-humanでしかなくない? 🌵:あと、服部さんのテキストはフェッリクス・ガタリが80年代に出した3つのエコロジーの問題提議から始まって、日本の平成を考えるといろんな危機があったし、イギリスのEU脱退とか考えると、私たちはこれからどう生きていくかっていう話をしている。それを再考するっていっているけれど、展示はどうやって生きていくかという共存という形だったんだろうか?  私は少なくとも展示がそれを再考しているようにも思わなかった。しかも、テキストには震災から10年とかオリンピックとか、日本の政治的なコンテクストの説明をしているけど、あの展示をやるなら、日本から離れて然るべきじゃない。🐬:せっかく奄美や宮古の土着文化を扱っていたのに、なんで日本という文脈に戻ってしまったんだろう? 服部さんのテキストでは自然災害っていっているけれど、津波を「日本」が語らなければいけないものとして捉えている。展示では国とかそうゆうレベルの話はいい意味でなかったのに、このテキストは逆にそれが強調されている。津波石は単純に津波だけでなくて、アニミズム的なマテリアルとしての石にも起点が置かれるわけだよね。だったら、津波石から展示を始めたらよかったんじゃない。でも、展覧会のフレームとして神話を被せちゃったから、そこがわかりにくさ、というか。🌵:津波石だけで語りたかったことは語れてしまうし、その方がガタリの問題も展覧会の筋として見えてくる。津波が否応無しに来たとしても私たちはそこで生きなければいけない、でもどうやって、っていう話になるし、その石を起点にコミュニティが紡がれていく。でも神話の話を入口としてしまうと、私たちがどう生きるかっていう問題提議をされても、いや、神話だし、ってなってしまう。🐬:津波石には震災とアニミズムと、ポストヒューマンがすでに存在しているもんね。あと、沖縄のことを説明したら、トランスカルチュラルなそのあり方はすでにある。あの神話物語をウォールテキスト、つまり展覧会のフレームワークにしてしまったことで細部が見えずらいと言うか。物語の挿入方法が違えば展覧会の見方は全然違ったと思う。 (左)下道基行《津波石》(2015年〜)(右)下道基行による《津波石》作品一覧(撮影:ArchiBIMIng 提供:国際交流基金) 🌵:その意味でこのカタログは補助的な資料というよりは、コラボレーションの世界観だよね。でも、服部さんは「アジアの境界線」について言及しているところで、非日本人アーティストを呼ぼうか迷ったけれど日本館の展示であって、そうゆうフレームワークはアンフェアだからやめたって書いてある。 🐬:それこそ、台中の神話研究者なりアーティストを呼べば良かったんじゃないの。そうすると日本の植民地時代に領土を侵害されていったような歴史も浮かび上がってくるかもしれない。それでいうと、物言う魚の話とか、言語化、文語化された言語を拾った生き物とか、非言語的な生物の話をしているけれど、結局展覧会は言語なりネイションステイツなりの近代的な構造によっても区別されている。🌵:このカタログもそうだよね。日本語読める人にしかこの細部はわからない。🐬:日本における言語と民族と人種と国家の統一性、その神話性を結果的に強調してしまっている。もちろん、みんな違うって気付いているのに、やっぱり見て見ぬ振りをしていて、それがこうやって細部に反映されてしまっている。🌵:美和ちゃんもそうゆうことを展示でやっていたわけだけれど、国とかアイデンティティといったものが不明瞭な時代を基本的には全員がずっと生きているわけじゃん。その意味で、どうしても韓国館と台湾館と比べてしまうのだけれど、彼らはそういった問題を正面から扱っていた。日本人かそうでないかで展示のコラボレーションのあり方を規定しているように、日本館の場合、結局共存しているのは同じ文脈を共有していると想定される人だけになっている。🐬:せっかく台湾とか日本って政治的な境界が引かれる前の話してるんだから、各コラボレーターが持っているトランスナショナルな繋がりをもっと引き出せたんじゃないかと思う。あと、どうしても私が違和感を隠せないのは、服部さんはテキストで昔のビエンナーレと建築についての話、磯崎新から2012年の震災後の伊東豊雄の金獅子賞とった展示、その後の田中功起さんと蔵屋美香さんとか、どうやって日本館が津波とか震災を扱ってきたのかっていう経緯を書いている。服部さんのキュレーターとしての立場ではそういう日本館の文脈を引き継ごうとしているわけでしょ。そう意味でのコミュニティの話とか津波石だったんだよね。でも、展示としては引き継げていない。宇宙の卵の出現がやっぱり唐突だったんじゃないかな。🌵:日本館はこういう歴史があって、その歴史の一旦を担えたらみたいな書き方だったら良かったんだろうけれど。しかも、宇宙の卵をやろうとしたら、逆に津波石はいらなかったかもしれない。神話にまつわるインスタレーションとか、下道さんの漂流物のプロジェクトとかさ。誰か知らない人のものが流れ着いて、その外部性が根付くというか、違う形として提示されるみたいなあり方はまさに宇宙の卵的じゃん。もし、漂流物が産み落とされた卵と読むならば、神話と現代が繋がるし、それこそhumanとnon-human。🐬:でもさ、あの展示には巨大なモノリスみたいな巨石というか巨石信仰が重要だったんだよ。津波石でなくても良かったけれど、「津波」というのは切り離せないトピックだもんね。なんかやりたかったトピックを詰め込みすぎて、それが展示としては綺麗なものとしてしか見えなくなっちゃった感じだよね。服部さんはクラシカルなセンスでの建築家とかキュレーター、音楽家の話をしているけれど、そこを強調するのはさ、やっぱり彼にとってそうゆうクラシカルなセンスを超えて恊働することが重要だったのかな、宇宙の卵より。🌵:それが共存の手がかりってことで、それが服部さんなりの答えなんだよね。そう考えると、その答えと展示されているものが持っていたり語っているものの間にはギャップがあるよね。🐬:このテキストはやっぱりどうゆうキュレーションをするかというフレームワークやメトドロジーの話であって、そこから何かが見えてくるって話じゃないよね。キュレーションの方法論として、異業種間のコラボレーションやコレクティブの重要性に焦点があって、参加作家それぞれが扱う内容に深く切り込めていなかったんじゃないか。🌵:どういう方法論を作るかっていう話になると、神話は関係なくなってしまう。神話には方法論はないというか、そういうものがない世界なのに。 🐬:だから展示では、神話を現代的にどう読むかの話がやっぱり欠けてしまっている。このスクラップノートの英訳が無いのは勿体無い。コラボレーションを重要視するんだったらこのドキュメンテーションを作品と同等に重要視するべきだったんだと思う。ピロティ部分と内部の役割を分けていたのは明快だったけれど、もうちょっと内外部の接続が必要だったんじゃないか。だって、カタログを置いていたピロティーのアペンディクス感がすごいもんね。今回みたいに人類学が入った場合は情報やマテリアルの見せ方が難しいと思うんだけど、そうなった時に印刷物とか書籍を展覧会の延長の場として位置付けるためには、もう工夫でしかないじゃん。 日本館ピロティ風景 安野太郎による音の作品《COMPOSITION FOR COSMO-EGGS “Singing Bird Generator”》の一部であるバルーンの設計は能作文徳が手がけた (撮影:ArchiBIMIng 提供:国際交流基金) 🌵:要はカタログではプロセスを見せたかったんだよね。だって宇宙の卵に関しては何にも言ってないからこそ、マニフェストとしてのコラボレーションだもの。一見すると上手く共生しているように見えるし、本人たちもそう錯覚しているだけかもしれない。でも、メトドロジーを開発していくことと、それが批評的であることは同じことではない。ただ、4人は自分の欲望というか興味にしたがって進んでいるから、単独的でありかつ協働的でどれも面白いじゃん。共存というよりも「協働」の展覧会だった。 🐬:あと一方で、日本の閉鎖感もあるし、先進国神話を抱えている。細胞に染み込んだ、無意識のナショナリズムみたいのはすごい強いよね。 🌵:日本館で日本の問題だから非日本人のアーティストにとってアンフェアな状態、とか言ってしまう姿勢とかね。でも日本の良心として、世界のために津波の話をする。 🐬:でも、作家なり、キュレーターなり、研究者なり、パブリックな存在だから、ある程度の責任が付きまとってしまう。ベニスのジャルディーニにあるナショナルパビリオンでやる展示の政治性と責任があって。このコンテクストでなけでば、見方は変わるし良い展示だったんじゃないかな。 🌵:そうゆう責任はさ、その枠組みの中にいる以上は引き受ける以外はないんだよね。多分私たちが抱える一番の違和感はさ、そうゆう議論と日本の現代美術のギャップみたいなところだと思うんだよね。前提としているところのギャップというか。例えば、この3つのナショナリパビリオンのカタログを見ると、違いがすごいはっきりしている。台湾館のキュレーターであるプレシアードは「ファルマコ・ポルノグラフィ時代」を提唱するスペインの理論家だし、韓国のキム・ヒョンジンは、デコロニアル理論のワルター・D・ミノーロ*からキュレートリアルステートメントを始めてていて、両方のカタログとも他の研究者も入れた論文集としても機能している。一方で、服部さんはガタリで、他にコンペに出していた遠藤水城さんはベンヤミンからステートメントを始めている。古いとか、新しい理論を持ってくるとかそういう話ではなくて、いま何が起こっているかっていうことと、どういう議論がされているか、どうゆう立場として外部から見られているかに関して自覚的であるのは重要だと思う。それはアートが外部と接続するとかそうゆう話ではなくて、アートは外部性そのもののなかに存在しているし、展覧会からどんなディスコースが生まれてくるかとか、延長線としてのカタログの役割のあり方にも関わってくるよね。 *Walter D. Mignoloの日本語での名前表記はアカデミックな言説では多くの場合「ワルター・ミグノーロ」となっていますが、発音としては「ミノーロ」が近いと判断し、今回は「ワルター・ミノーロ」と表記しています。 対談者根来 美和 (ねごろ・みわ) インディペンデント・キュレーター。ベルリン、チューリッヒを拠点に活動。早稲田大学創造理工学研究科建築学修了。展示・空間デザインに従事した後、チューリッヒ芸術大学キュレーティング課程修了。トランスカルチュラルな表象やパフォーマティヴィティ、デコロニアル理論と近代の再編成への関心を中心に活動する。主な企画に、百瀬文個展「Borrowing the Other Eye」(ベルリン、2018)、「my grammar and (y)ours?」(チューリッヒ、2018)、「Parallax Trading」(ウィーン、2019)。丸山美佳マルスピの編集チーム。ウィーン、東京を拠点に、研究者、批評家、キュレーターとして活動。横浜国立大学大学院建築都市文化専攻修士課程修了。現在、ウィーン美術アカデミー博士課程在籍。

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『ひるにおきるさる』にて遠藤麻衣インタビュー
#Archive 黒嵜想さん、福尾匠さんによるウェブメディア「ひるにおきるさる」にて、編集チームの遠藤麻衣のインタビュー「脱げないヴェールのかぶりかた:遠藤麻衣ロングインタビュー」が掲載されました。「ひるおきるさる」は、投げ銭によってコンテンツ先行型の育てるメディアです💫 https://note.mu/kurosoo/n/n35d3fa5a5151

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「アートグッズ/アートブック」BankART Station
#Archive 「アートグッズ/アートブック」@ BankART Station2019年7月5日[金]〜21日[日]11:00–19:00 出品団体・作家(順不同)のげやまくん、ファーレ立川アート管理委員会、石内 都、HeHe、橋村至星、エクスポート、岩間正明、三宅由梨、みかんぐみ、光画コミュニケーション・プロダクツ株式会社、Alt_Medium、山口晋平、井上 直、静岡市美術館、廖 震平、藤野真也、神戸アートビレッジセンター、今村 源、はじまりの美術館、DOOKS、株式会社ボイズ、しまうちみか、韓 成南、島村恵美、ときたま、アートギャラリーミヤウチ、磯崎道佳、井上奈奈、株式会社プロセスアート、株式会社気動、原口典之、柳 幸典、伊東敏光、チャールズ・ウォーゼン、田中圭介、七搦綾乃、入江早耶、丸橋光生、土井満治、尾身大輔、チームやめよう、牛島達治、salon cojica、近藤美恵子、gallery 21yo-j、山下大輔建築設計事務所: DYA、谷内口博幸、イメージ エフ、土居大記、今野規子、松山 賢、土方美雄、密照京華、楢橋朝子、和田守弘、西武アキラ、細淵太麻紀、現像、新垣美奈、関 直美、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、島根県立石見美術館、遠藤章子、坂田恭平、JUNKO SUZUKI、尾山久之助、広松木工株式会社、SUSUKIMI、乾 久子、樋口昌美、渡辺 篤、窪田久美子、山本麻世、古橋 香、阿部道子、アーツカウンシル東京、佐々木大河、金子未弥、RED Profile、牛島智子、関内 潔、ぽつねんとして、(松山由佳・鈴木恵里)、藤村駿斗、大和由佳、柵瀬茉莉子、上村卓大、スサイタカコ、余情、韓 卿浩、中島 修、関 和明、大野 繁、河村るみ(松田るみ)、鈴木事務所(鈴木 雄介 + Léo Allègre)、藤本英明、岩佐 徹、横浜トリエンナーレ組織委員会、寺江圭一朗、高橋啓祐、山口啓介、林 淳一朗、秋山直子、サンズイ舎、武弓真実、horime tougei (ホリメトウゲイ)、和田 彩、泉 イネ、松本倫子、近藤 南、SAKURAI ART SYSTEM、ユ・ソラ、葉栗 翠、坂間真実、奥村昂子、矢内原充志、村田 真、繁田真樹子、近 あづき、ツバメ出版流通、PHスタジオ、おのあき、丸山純子、中谷ミチコ、松本秋則、プレッシャーズ(阿部 静・岩永かおる・柴田かなこ・土本亜祐美)、三枝 聡、レイヨンヴェール、村田峰紀、関 直子、ごとうなみ、開発好明、ヤング荘、LIXIL出版、佐久間里美、オフィス卯甲、野老朝雄、gallery fu、カトウチカ、増井ナオミ、有限会社かんた、蔵 真墨、安部寿紗、あべれいこ、西原 尚、武藤 勇、川本尚毅、金川晋吾、キム・ガウン、中川達彦、谷本真理、山下拓也、高杉嵯知、安田拓郎、阿部剛士、橋場佑太郎、Multiple Spirits(マルスピ)(遠藤麻衣+丸山美佳)、三浦かおり、Lori Ono、リュウ・リン、makira 牧ヒデアキ、吉田翔太郎、中島庸介、恩地みどり、SYコレクション、アートフロントギャラリー、 まちづくりスタジオ鶴岡Dada 委員会、宮森敬子、Yumi Song、旅する芸術祭実行委員会、黄金町エリアマネジメントセンター、他◯BankART出版から100タイトル以上(川俣 正、田中信太郎、岡崎乾二郎、中原浩大、朝倉 摂、原口典之、柳 幸典、中原佑介著作集、他)◯雑誌バックナンバー(新建築、住宅特集、美術手帖、芸術新潮、ART iT、REAR、他)

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#Editorial, #Blog, #Archive Since the late 19th century, the growth of feminist consciousness in Japan was interwoven with the internal Westernization. In the same way, there were movements to acquire women’s suffrage with the intellectual and democratic atmosphere after WWI in Japan. However, Japan instituted only adult male suffrage in 1925, and political prohibitions on women remained (but the first female suffrage in Japan happened in 1987 only for three months in Kochi prefecture).    Later totalitarianism and militaristic policies weakened these movements, and women were involved in Japanese imperial and colonial desires. It was only the Japanese’s defeat and US occupation in 1945 that women achieved suffrage (but this winning of women’s suffrage brought a different problem that non-Japanese citizen from the former Japanese colonies lost their ballot, which still remains as an issue regarding citizenship in Japan). Since then, the certain demands for women's emancipation have been granted by the governments concerned with capitalist growth, while undesired changes for women's liberation are blocked.    Until today, many people in Japan have tended not to talk about these issues, having a fear that feminism could get them into trouble since the use of the term "feminism” has historically been distorted by the authorities as well as the mass media. This poster was first made for the exhibition Nothing Less! curated by Saloon Wien (Julia Hartmann and Aline Lara Rezendeulia), which celebrated Austria’s 100th anniversary of Women’s Suffrage.Nothing Less! 100 Years of Women's Suffrage6 September - 22 September, 2018 at VBKÖ

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Vienna Secession, Seito and Multiple Spirits
#Editorial, #Blog, #Archive We want to connect with histories. the first issue of Seito In the 20th century in Japan, there were some crucial magazines which induced social consciousness of women and awareness of feminism movements. Among them, Seito was significant for us to start Multiple Spirits. Seito was launched by women in 1911 to feature women’s writing to a female audience. The name, Seito, translated to “Bluestockings,” is a nod to an unorthodox group of 18th-century English women who gathered to discuss politics and art. Seito was intended to be not a radical or political publication, but just a literary magazine for females. However, as the magazine grew, it became more radical and political, emphasizing cultural and social matters and raising controversial questions about the rights of women and the control which they had over their bodies, such as the issue of women’s virginity, chastity, equality and abortion in the patriarchal family system. Therefore, the magazine turned out to be a place for provocative challenges to the social and legal structures in the traditional and modernizing society where a woman’s role was to be only a good wife and mother. The stories appeared in the magazine were radical enough that the government censored them.    Later, the magazine had been struggling financially, and attention began to fade after Japan entered WWI. It was closed without warning in 1916 (when the last chief editor, Noe Ito, had an affair with the anarchist activist Sakae Osugi). Seito, nevertheless, occupied a monumental position for feminism movement in Japan.   Hiratsuka Raicho, the founder of the magazine Seito, wrote a manifesto in the first issue in 1911, calling for action, which became known as the first public address on Japanese women’s rights. In the beginning, a woman was the Sun. She was an authentic person. Today she is the moon. She lives by others, shines with the light of others; she is the moon with the pallid face of an invalid. Today, Seito was born, which was created by contemporary Japanese women's brains and hands. We must restore our hidden sun. "Recover our hidden sun and our potential genius. L: Joseph Engelhart, Merlinsage, 1904R: the cover image of Seito by Chieko Naganuma   The cover of the first issue was designed by Chieko Naganuma (later became Chieko Takamura, a wife of the well-know poet, Kotaro Takamura), one of the first female painters in Japan, and she appropriated an image of Merlinsage by Joseph Engelhart, a member of Vienna secession, in 1904 (1).  As the cover of the first issue of Shirakaba, a magazine for literature and art launched by the upper-class young men in 1910 Japan, appropriated Max Klinger's painting, the then Japanese art and literature were influenced by Western art movements while Japanese art influenced on their movements in the other way around.    After more than 100 years later, Multiple Spirits was launched in Vienna in 2018, and it is essential for us to trace back these histories critically, connecting different cultural and political influences. Specifically, for example, the aesthetics of the fin de siècle had also a huge influence on girls popular cultures, including manga and anime, in the postwar period in Japan. They interpreted the image of females produced by the white male gaze in the past western culture and transformed them into women’s empowerment with transcultural imaginations. These cultures assumed an important role to show a new and contemporay way of life as a woman (but still in the heterosexual normativity). In addition, the representation of a rich diversity of gender and sexuality have emerged as well through these imaginations. This diversity has had a significant impact on feminism as well as queer communities outside of Japan in a different way from the Japanese one. We have grown up with these transcultural conditions, which never be a one-sided appropriation. Probably, we are the Sun and the Moon, at the same time. (1)The post on FB by Tsutomu Mizusawa on September 13, 2017. https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1957525891194229&id=100008105107577*The image of Seito: https://sumus2013.exblog.jp/28148373/T

#vol.1

女性性についての所感 Current Discussion About “Female” and “Women” in Japan
#vol.1  「女性」というキーワードがメディアを賑やかしている。まだこんなことを言っているのか、とため息をつきたくなる。歴史のなかで「女流」や「女性作家」など、そういう接頭語をつけることは批判的に反省されてきたはずであるし、それを“あえて”使うことも単なる歴史の再生産を招く可能性が高い。また、「女性」の使用は、その対となる「男性」を匂わせることになる。いくら LGBTが話題になったり、同性同士のパートナシップが結ばれたり、社会が新たな“寛容”を手にしたとしても、性をめぐる議論はこの「男」か「女」のバイナリーをもとにしか存在していない。一体、誰が“寛容してくれる”人たちなのだろうか?  一方、政府による「女性が活躍できる社会」という近代家族制度を強化するような空虚なキャンペーンとともに、「セクハラ問題」に躍起になるメディアやSNS上の議論を傍目に見ながら、その喧騒にかき消されてしまった本当の問題は何であろうかとずっと考えている。  だけど、ねえ、もう私たちは「男性性」とか「女性性」とか、そうハッキリ区別できるような世界に住んでいないでしょ?  家族だって関係性だって簡単に定義して目指すべきようなものではないと、知っているはずでしょ?  そんな時、たまたま目にした京都国際舞台芸術祭 2018 のニュースによると、今年は「女性アーティストおよび女性性をアイデンティティとするアーティスト/カンパニーにフォーカスを当てプログラムを構成」するそうだ。ここもか、と正直驚いた。 この女性性とは歴史的に政治的に構築されてきたものなのに。アイデンティティという言葉を使うあたりも、やっぱり「男性性」をもとにした社会とか組織をほのめかしている。じゃあ、来年は「男性性」をアイデンティティとする芸術家たちのプログラムをやってくださいと言いたい。ウェブサイトにはリレー・コラムがあって、「フェミニズムの問題を女性だけの問題にせず、社会全体の問題とし、観客のみなさんと一緒にプログラムのテーマへの理解を深めるとともに、学んでいきたいと考えています」とある。 これは、日本においてフェミニズムやその周辺に対して理解がないことを示していると受け取れば良いのだろうか? それとも、世界的にフェミニズムがブームになっていくことをあえて批判的に考察するプログラムとして受け取れば良いのだろうか? さらに言えば、それはフェミニズムという言葉の使用でできるものなのだろうか?  フェミニズムはそもそも「女性」の問題ではないので、最初から「女性だけの問題」ではない。おそらく、選ばれているアーティストの多くは、フェスティバルのコンセプトそのものではなく、このコンセプトが孕んでいる問題と真摯に向き合っていくのだろう。このニュースをみて怒っているのに、どんなパフォーマンスが生み出されるのかを見るのを楽しみだと思ってしまうのはしょうがない。その記憶として、ここに記しておくことにする。 2018.5.1 雅和 ---    The keywords "female" or "woman" have recently been bustling in Japanese media stimulated by the current international feminism movements. Since the late 19th century, the growth of feminist consciousness in Japan has been interwoven with the internal Westernization. Certain demands for women's emancipation has been granted by the governments concerned with capitalist growth, however, undesired changes which would have raised the real issue of women's liberation have been blocked by the society. Still, the Japanese government promotes an empty campaign to strengthen the modern family system while hyping "the society where women play an active role”, and mass media and SNS desperately follow issues of sexual harassment as a new game of feminist.    What is drowned out by this propaganda?    Each time I see these kinds of propaganda, I feel like sighing heavily that people still talk in this way to emphasise the identity as traditional femininity by placing "female" or “woman” before an occupation, such as "female artist" and "woman writer”. In a press release by KYOTO EXPERIMENT 2018, it also stated that this performance festival would have “a program focusing on female artists or artists and companies that identify as female." I was honestly shocked by this news because this sounded almost the same as the propaganda.    As we know, the femininity and the identity as female have been constructed historically and politically. Even if one does use these words, in particular, there is a high likelihood that this instance will reproduce sexism, because it suggests "male" as its pair and the society based on patriarchy.   We are not living in the society where we can distinguish clearly between "masculinity" and "femininity" anymore. We cannot define a family or any relationship as a simple goal to be reached. Even though the society is openly speaking of LGBT issues and the same-sex partnership, and it looks a new “tolerance" had emerged, these discussions on gender and sexuality are still based on a binary between men and women. Who is tolerating whom?  In the website of the festival, there is a page of a series of essays "to problematize feminism not as an issue only for women but for society as a whole” by providing opportunities for audiences to gain more profound insights of the feminism, which sounds great. But, should I take this sentence as that there is no understanding of feminism and the related issues in Japan? Or, should it be regarded as the program which considers the global boom of feminism critically? What is more, I have to ask whether the term "feminism" is suitable to discuss these issues, as the festival director (a male) honestly told that it might be easy decision to focus on "female" artists.   The first and fatal mistake there is that feminism is not about female issues and never been "the problem only for women.” Most of the artists at the festival probably deal with not the concept of the festival itself, but rather the problems which the concept reflects. While being disappointed with the news, I'm looking forward to seeing what kind of performance will be produced by the artists. 1.5.2018, Masawa * The text originally appeared in Multiple Spirits vol.1. Courtesy of the author.

#Editorial

30年目のGuerrilla Girls
#Editorial あいちトリエンナーレ2019の記者会見において、「ジェンダー平等が実現」と宣言されたように美術界においてもやっとジェンダーの根本的な改革が始まったように思われます。しかし、「平等」への違和感がマルスピの編集チームにはありました。そのための結論を出すのではなく、マルスピは語る土台を作っていきたい。そこで、まずは編集チームの丸山美佳が3年前の2015年3月14日に自身のブログに掲載していた文章をここに再掲載します。  ゲリラ・ガールズ(Guerrilla Girls)は 1985年にニューヨークで結成された匿名のフェミニストたちによる芸術家グループである。彼女たちは、毛で覆われたゴリラのマスクをかぶって、美術史に残る「女性」芸術家の名前を用いながら、路上や美術館のトイレ、ビルボードなどにポスターを貼り、美術界、あるいは映画界といった文化に携わる分野におけ る性差別および人種差別の現状を皮肉とユーモアを用いて暴き出し、フェミニストの強い主張を提示する活動で有名である。   ゴリラのマスクの使用は、ミススペル「ゲリラ(Guerrilla)」→「ゴリラ(Gorilla)」から始まったものだが、彼女たちの匿名性を守るとともに不気味で不相応な見た目と、鮮やか黄色とゴシック体を使ったポップなデザインは、初期フェミニズムの活動の中でもひときわ印象が強いものだった。アングル(Dominique Ingres)の『横たわるオダリスク(La Grande Odalisque)』(1814年)をパロディ化した“Do women have to be naked to get into the Met.Museum?...”(「女性はヌードにならなければメトロポリタン美術館に入れないのか?—近代美術の展示作品のうち女性アーティストの作品 は5パーセントだが、ヌード作品の85パーセントは女性」)(1989年)は、現代美術におけるフェミニズムの一つの金字塔であった。 DO WOMEN HAVE TO BE NAKED TO GET INTO THE MET. MUSEUM?, 2012image: https://www.guerrillagirls.com  リンダ・ノックリン(Lynda Nochlin)がそれより以前に「Whyhave there been no great women artist?」(1971年)と 疑問を投げかけたように、芸術の社会性とその経済活動における女性の不在は、芸術が基本的に男性中心的な社会の産物であることを暴露したが、ゲリラ・ガー ルズは芸術における女性は一貫して描かれる対象 —しかも裸体で、男性の眼差しによって見られる対象— でしかなかったことを、公衆の面前で、しかもきわめてわかりやすい形で暴露したのである。一方で、「女性」アーティストになるということには利点もあって、それは成功に対してあまりプレッシャーを持たなくて いいということであると、彼女たちはアイロニカルに付け加えている。なぜなら、彼女たちによれば、「女性」アーティストである限り成功する確率は最初からきわめて低いからだ。 とはいえ、そのような初期フェミニズムから時代は移ってきている。現代においては「白人男性」アーティスト以外の「女性」アーティスト、あるいは「有色人」アーティストが活躍するのを目にするのはめずらしいことではない。それは時には「フェミニン」なものとして、あるいはそうではないとしても積極的に取り入れられるべき「差異」として受け止めようというかつてとは違う文化背景を前提としている。ゲリラ・ガールズの活動はその状況以前の、まだ芸術が閉じられた空間で男性ブルジョワジーの所有物として振る舞っていた時代に対する強い不満の表明であった。  現在の状況において、これらの初期フェミニストの活動が今なお有効だとは思わないが、この数十年間の変化を考えてみれば、彼女たちの活動はなくてはならないものであったと思う。とくに、自らの(名前と顔を出した)制作の傍らで、ゲリラ・ガールズとしてアノニマスに活動することは、表現者として自分の作品がどのような目で見られているかということを強く意識した行為とも考えられるし、ある意味では「女性」というカテゴリーで見られることに対する拒絶を示す能動的な行為であったのではないかとも考えられる。  しかし、最も驚くべきことは、この活動が1980年代半ばから現在に至まるでずっと活発に継続していたという事実である。今年2015年はグループ設立から30周年にあたり、その特別レクチャーがウィーンの美術アカデミーで行われ、設立メンバーであるケーテ・コルヴィッツ(Kathe Kollwitz)とフリーダ・カーロ(Frida Kahlo)によるプレゼンテーションがあった。歴史の一部としてのみゲリラ・ガールズを認識していた私にとって、彼女らが現在もなお活動を続けているという事実は、きわめて不思議なことであったし、このレクチャー/プレゼンテーションに参加することによって様々なことを考えさせられる機会になった。  会場は多くの人で溢れていた(決して女性だけではなかった)。記憶が曖昧だが、一般的にはアカデミックな分野において女性の占める割合が20パーセント以下であるのに対して、事務職員を含めて80パーセント以上が女性であるこの美術アカデミーにおいては、フェミニストであることは当然のように受け入れられている。女性が働きにくい職場なんてものはもっての外であり、赤ちゃんや子どもを連れてきて授業を受けているクラスメイトも数人いる。  そんなアカデミーの会場で、二人はもちろんゴリラのマスクをつけながら、よく準備された何十枚ものパワースポイントを見せ、彼女たちの30年間の活動と今 なおフェミニストである必要性を適度に笑いを取り入れながらも、強く主張していた。自分たちの個人の制作活動のかたわらで、同時にアノニマスな存在として 活動することの基本的な目的は「挑発」であり、「Be a creative complainer(創造的な不満家になりなさい)」と何度も繰り返すように、性差別や人種差別がいまだ芸術において広く存在しているという事実を世論に訴えようとするのである。彼女たちが言うには、オークションでの落札価格、大きな美術館での個展の回数などなど、いまなお女性アーティストの存在は男性 に比べると圧倒的に弱く、さらにメトロポリタン美術館の近代美術の展示での「女性」アーティストの数は減少した一方で、女性の裸体像は増えたのだと言う。 それが有色人種やクィアたちとなると、その割合はさらに低くなる。 なぜそうなるかと言うと、芸術そのものが過去の男性社会によって作り出されたものであり、女性やマイノリティは結局はその「異種」、「変わり種」として芸術に入っていくことを許されるという視点で見られているからである。彼女たちはそのような事実を示し「挑発」するだけで、そこに意義を感じているように思われたが、実際のところ、数字上で男女間に差があることが問題なのではないと私は思う。もしそれを糾弾して解決を求めて、それが受け入れられたからといって、それは政治家が女性の社会進出を数字の割合として増加させるために、形の上だけ積極的に女性を採用しようとする逆に不平等な状況を思い起こさせる。 「女性」アーティストだから採用されたといって、喜んでいていいものだろうか?   もし彼女たちの言うように、近代美術の展示における「女性」アーティストの作品数を増やして裸体の女性像を減らしたからといって、それで美術の歴史は変わるだろうか? あるいは、私たちが今まで習ってきた美術史における巨匠や名作の歴史は虚構として投げ出されることになるのだろうか? メトロポリタン美術館に行ったら、教科書に載っているような作品が一切見られなくなるということなどあるだろうか? あるいはそんな男性中心の芸術を完全に無視したからといって、それで新たな芸術の世界がひらけるだろうか?  挑発のその先にあるのはそのような芸術の歴史という記述されてきた途方もない膨大な出来事ともう一 度正面から向き合うことである。そう思うと、30年前に結成されたゲリラ・ガールズの問いかけは今でも全く変わっていないとも思われるし、このような活動 がいまなお挑発性を失っていないという現実に対して改めて複雑な思いに駆られてしまった。  芸術と向き合うとき、私たちは作品だけでなく、その向こうにいるアーティストに思いを馳せることがある。ゴッホの作品がゴッホ自身の狂気と結びつけて語られるように、芸術がいかに「作者」という呪縛から逃れようとしても、その存在につねに回帰してしまうことがある。それは、不必要に伝説化するというような悪い方向に働く時もあれば、文脈を排除してきた閉鎖的な芸術の解体へと働く場合もある。また同時にそれは、「作者」が「男性白人社会」という虚構における「差異」としての「女性」や「マイノリティ」であった場合、過去の「女性」アーティストが「フェミニン」なものとして評価されてきたように「差異」がそのまま作品に投影されてしまうこともある。   私はアーティストの文化的背景やその投影を積極的に捉えるべきだと思う一方で、それが「男性白人社会」という虚構に対してである限りは、その虚構との対立こそ解体すべきものなのではないかと考えている。しかし、フェミニズムといいながらも、女性の中にも「白人」から「有色人」というまた違った差があり、一 つのジェンダーでくくることにも限界がある。また、そもそも「作者」「作品」「美術」といった芸術を取り巻く文化制度は白人男性中心の「近代市民社会」と不可分な関係で出来たものであって、そのような市民社会や民主制という枠組みと密接に結びついた芸術の枠組みを残したままでは、そう簡単には解決付かない問題と結びついている。少なくとも、そのことは何度でも振り返るべき問題として残されているのである。 ===レクチャー/パフォーマンス情報==日時:2015年1月21日(水)19:30会場:ウィーン美術アカデミー(Detail)====================

#Editorial

#Conversation

#vol.1

インタビュー(パト・ヴィザウアー & 遠藤麻衣)マンガとアニメがファッションになったとき
#Editorial, #Conversation, #vol.1 日本のマンガやアニメは世界的に認知されているが、国や文化を跨ぎながら異なる形で受け入 れられている。サブ・カルチャーの域を超えて高く評価されている場合もあれば、くだらないものとして受け取られていることもあるだろう。そこで、マルスピはフェミニズムやクィアに関わる観点からマンガやアニメについて検討してみたいと考え、ウィーンでクィアやフェミニ ズムをテーマに活動するアーティトのパト・ヴィザウアーと、日本のフェミニストの表象や転化に挑んできている遠藤麻衣の対談を行った。二人とも幼少期より日本のマンガやアニメ、そしてファッションに影響を強く受けてきており、それが現在のアート実践に繋がっているという。対談はアート系のイベントやトークなどが頻繁に行われている cafe Lazy life(ウィーン) にて行われ、 二人のマンガやアニメの膨大な知識に圧倒されることが多かったが、その文化がいかに需要されていったのか、またアートやファッションなどの他分野とどのように関連していたのか興味深い話が展開された。インターネットが可能にした文化の広がりのなかで、マンガやアニメはどのような可能性を秘めているのか、あるいは何を疎外してしまっているのか。立場によって異なる受け取りの違いを私たちはどのように考えていくことができるのだろうか。 遠藤麻衣(以下、M) :マンガ『Paradise Kiss』(1) が好きだと聞きましたが、いつ頃にそのマンガを知るようになりましたか? パト・ヴィザウアー(以下、P) :はっきり覚えてないけれど、13 歳頃だったと思います。友 達の一人で中国人だった子がアニメとかマンガのキャラクターをよく描いていて、私たち二人ともマンガ・アニメに興味を持っていました。あるとき彼女が『Paradise Kiss』を学校に持ってきてくれて、すぐに読んでしまうくらい夢中になりました。ファッションの学校に行くという進路を方向付けるものであったし、マンガの中で描かれたデザイナーやファッションの学生、 モデルとしての人生に魅了されました。とくに、オーストリアは 13 歳から14 歳の時に、次にどの学校に行くのかを選択しないといけなくて、その選択でその後の職業が決まります。そういうときに『Paradise Kiss』に出会いました。 M :13 歳で選べるというと早いですね。日本では中学卒業したあたり、15 歳から選べるようになっていて、『Paradise Kiss』の舞台は高校の専門学校かしら。私は、中学生の時に『Zipper』 というファッション雑誌の中に掲載されていた『Paradise Kiss』を知るようになりました。そ れに影響を受けて私もファッションを勉強するために専門学校に行きたかったんですが、15 歳で一人暮らしをして専門に行くというのは全く現実味がありませんでした。なので地元の進学校に進んで美術部に入りました。 P :『Paradise Kiss』が『Zipper』に掲載されていたのは知っています。当時すでに、写真やアー ト系の本を見るために日本の雑誌をオンラインでダウンロードしていましたし、矢沢あいのファン・ページがいっぱいあって、本がスキャンされていました。単行本の横に付いているコラムにはマンガの背景とかも書かれていて、そこでファッション雑誌に掲載されていることも知りました。すべてドイツ語に翻訳されていましたし。 M :そうなんですね。『ご近所物語』(2) も読みました? P : ドイツ語圏では『NANA』(3) が最初に出版されて、数巻出たあとに『ご近所物語』が翻訳されました。『ご近所物語』の 80 年代、90 年代的スタイルの感性がとても好きです。あと、全 てのキャラクターが立っているし、それぞれが人格をもっている。コミュニティーとして一緒 に活動していくところや、大きなプロジェクトを実現してくところがとても好きです。矢沢あいは病気になって『NANA』を休載して いますが、物語が完結するのを待望している人は多いです。私もたまにインターネットで新しいニュースがないかを調べています。 M: 日本では、マンガとファッションが接続していたのが、『Zipper』 などの 2000 年代でした。小学生の頃、私はマンガで描かれるファッ ションはちょっとダサいというか、現実のファッションの流行と接 続しないものだと思っていました。なので、矢沢あいの『ご近所物語』 が『りぼん』に掲載され始めた時は、衝撃を受けた記憶があります。 『ご近所物語』が出てきたことで、ファッション雑誌の世界とマンガの世界が繋がったんです。ファッション雑誌に掲載されている読者モデルと、マンガに登場するキャラクターが同じ流行を追っている。その後、『Zipper』で ご近所物語続編である 『Paradise Kiss』の連載が始まって、『りぼん』読者としては二つのメディアがスムーズに連環 しました。同時に『cutie』では安野モヨコの『ジェリービーンズ』がやっていて、別冊では手作りブックがあったり、型紙がついていたり、自分で好きなものを作るのが流行った時代でした。 P: 私もロリータファッションの型紙をダウンロードしました。 M: そうだったんですね! 読者モデルがたくさんいて、友達は皆んなそれぞれ違う読者モデルに憧れていました。 P: きゃりーぱみゅぱみゅもでしょ ? 東京のファッションで良かったのは、みんなモデルみたいな人だけじゃなくて、実際の人も追いかけていたことだと思います。『KERA』という雑誌も好きで、ロリータのアイテムを他のブランドと組み合わせたりしていてとても刺激的でした。 M: そういえば、2006 年に『リアルクローズ』(4)と言うマンガもありました。『プラダを着た悪魔』 の日本バージョンのような。主人公はデパートのバイヤーで、H&M などのファストファッショ ンが流行りだした時に、どうやってデパートを再興しようとするかという話でした。 Pato Wiesauer, Doll becomes them2014, Photography P: 何個か記事を読みましたが、原宿のストリートカルチャーもファストファッションに対し て苦戦しているようですね。皆が同じような服を着ているいまに比べると、当時はもっと多様性がありました。ロリータのお店も閉まり始めていて、店舗だけでなくブランド自体がなくなっていっています。 M: だんだん無印とかユニクロとか、ノームコアとか、そうゆうシンプル思考に変わっていったように思います。20 代前半に銀座のバナナリパブリックでバイトをしていたのですが、頑 張りすぎるファッションはイタイみたいな空気を感じました。派手で目立つものより、着回しがきく安価でベーシックなものの方が売れやすくなってきていた頃です。アイデンティティー とかを見せるような場所ではなくなったのかも知れませんね。 P: 日本のファッション雑誌とかブログなどを今でも追っていますが、流行がすごい速さで進化してすぐに消えていっていますね。2000 年代や、初期のギャル文化、ロリータ・ファッショ ンでさえ数年は支配的だったと思います。ファッション学校で卒業プロジェクトとして、50 年代から続く日本のストリートファッションの進化について書きましたが、とくにギャルとロ リータ文化に焦点を当てました。ロリータ・ファッションに着想を得てコレクションも作って おり、15 着のオリジナルのデザインと型紙も発表しました。 ジェンダーレスがトレンドになっていますが、どう思いますか? P: Tokyofashion.com の記事で、りゅうちぇるやペえが紹介されているのを読みました。「まさに数年前からあなたがやってきたことが、いまトレンドになっているよ!」と何人もの友達が言っていました。この方向にトレンドが関わってきたのはとても良いと思います。ただ、日 本のポップカルチャーは本質的に全て表面的だという印象を持っています。全て幻想であってそれが表面的に起きているにすぎないし、ある種の生き方をしているわけではない。だけど、 ヨーロッパの服装事情と比べると、“ ジェンダーレス ” な服装をしていても、それで人を判断したりしないと思いますし、ましてや脅したりすることはないでしょう。 また、男装という、主に女性が男性の服装やそれに相応しいスタイルをする文化はずっとあると思います。私はヨーロッパのロリータファッションのイベントに何度か参加していますが、 アムステルダムで開催された国際ロリータティーパーティーに参加した時に、アキラ(5)という男装のモデルに会いました。タバコを吸いに外に出ると彼女も出てきたので、友達と一緒に写真を撮りたいとお願いしたんです。すると突然、彼女は驚いた顔をして「あなたは女じゃないの?」と聞いてきたんです。彼女は、私が身体と性自認が一致した女性でないとわかるとショッ クを受けたようでした。その後、彼女が通訳の人に話しているのを耳にしたのですが、「彼女は男なの?」と尋ねていたんです。男装をしているモデルが女や男に当てはまらない性(ノン バイナリージェンダー)やトランジェンダーのアイデンティティーを受け入れることもできなければ知識もないということに、とてもイラ立ちました。彼女にとっては単に着るためだけのコスチュームにすぎないようでした。私が言いたいことは、マンガやアニメにはそういうノンバイナリーなあり方を体現しているキャラクターがたくさんいるのに、現実では家族から拒否されたり仕事が見つからなかったり、日本ではそうゆう感じでしょう。それはつまり、スクリーンや雑誌、舞台上などのエンターテイメント産業であったり、距離を置いて見られる限りはトランスでいることは OK ということなのでしょうか。そこには女性や男性に当てはまらい人間 にたいする寛容さがないように思います。 マンガとアニメのエスティックの受け取り方 M: 『Paradise Kiss』に描かれている人たちは基本的にマイノリティーじゃないですか。通常の進路にはコミットできなかった人たちがコミュニティーを作って、ブランドを立ち上げる。「普通」との違和感を感じながらも目標を実現して行く所に読者は夢中になったり共感したりしていたと思います。ただ、田舎で育った自分は、高校の風紀が厳しくて(6)、日常の服装の自由が限られていたため、『Paradise Kiss』で描かれる東京の文化はどこまで行っても非現実で した。地元にいた頃の自分を思い返すと、テレビや雑誌だから OK というよりは、そこに映っ ているのは「東京」で、そもそも自分の現実と繋げてはいませんでした。日本と一口にくくっ ても文化格差は激しいので、私のように感じている人はそれなりに多いのではないかと思いま す。それよりも『花より男子』や『ピーチガールズ』のような高校を舞台にして、いじめ、校則違反、問題行動などが描かれる話の方が自分の現実の延長上に感じられました。こちらは、 いわゆるかっこいい男子と結ばれる少女マンガの定型がベースで、異性愛しか出てきません。 私もちょっとだけロリータファッションをかじったんですが、ロリータファッションというの は、周りが自分から距離をとると同時に、自分のための鎧でもありました。 P: 数年前の私にとって、ドラッグ・クイーンになるということがメカニズムをコピーしたり、 鎧としての形式であったということと似ているように思います。さっきおっしゃっていたように、マンガの可能性の一つとは、マイノリティーのグループがコミュニティーを作って一緒に成長するのを見せることによって、共感できるということですよね。『ParadiseKiss』は幸せな異性の恋愛関係という形では終わらなかったし、ゲイやトランスジェンダーの表象を視覚化して共感できるようなものとしていました。当時はそういう知識がなかったので、最初にマンガを読んだときとは奇妙に思いましたが。麻衣さんは、フェミニズム的な観点から描かれたマンガがあると思いますか ? M: 色々あると思います。ただ、例えばディズニーが描くような、社会を変革するような強い意志をもった女性のマンガはあまり思いつきません。90 年代に読んでいたもので例をあげるとすれば、『子どものおもちゃ』は、色々な家族のあり方と問題を描いていましたし、主人公の小学生の紗南は、学校で起こるいじめや先生いびりなどの問題に対して果敢に挑んで状況を変えていました。また、『きんぎょ注意報』は、当時の少女マンガの定型をパロディ化してギャ グとして扱っていて、今思うと自己批判的で面白いです。主人公の内面が描かれずに空っぽなため、当時は不気味だったと思っていた点などもフェミニズムという観点で読み直してみたいですね。 P: 私たちができることとは、描かれたものからフェミニズム的な観点を受け取ることであり、 それをもっと前へと進めていくこだと思っています。私は『下妻物語』も好きで、とてもエンパワメントな映画だと思います。主人公の一人を演じた土屋アンナは『Zipper』のモデルでした。 M: 彼女は最初は清楚なイメージの “ ハーフ ”(7)として出てきたけど、そのあとロックやパンクに転向しましたね。 P: でも、そのロックとはファッションだけの話で、批判的なものは見られませんよんね ? 西欧におけるロリータのコミュニティーは、ロリータファッションはファッションだけではなく、 彼らの生活スタイルそのものであると言います。全身にロリータの服を来ていなかったとしても、ロリータでなくなるわけではないということです。ロリータの文化は西欧の追随者やコミュ ニティーによって変形したし、違う形で発展してきていますし、新たな意味も組み込まれてきました。ウィーンにも、お茶会を開催しているローリータ・ファッションの団体があります。 以前、ロリータのファションデザイナーに質問できる機会があったんですが、その質問の一つがロリータはファッションなのか、ライフスタイルなのかどうなのか、ということでした。その デザイナーは、「単にファッション」と言っていたことを覚えています。 M: 私も、ロリータファッションは週末限定だったし、自分のスタイルとは直結しませんでした。ただ今の自分にとっては、彼女が「単にファッション」と言ったというのはすごく共感します。気分で脱いだり着たり責任が軽いのが良いです。 P: ロリータを着るということはファッションを通してそのコミュニティーに所属するとことを何よりも意味します。ギャル文化もコミュニティーとして考えることができるのではないしょうか。ヨーロッパでは、ロリータ・コミュニティーの人がコスプレをしているのかと聞くことは、とても失礼だと思われています。ヨーロッパのロリータにとって、衣装はコスチュームではなく、政治的なステートメントでもあります。現在、ディプロマの論文を書いていますが、セーラームーンはクィア・フェミニズムの可能性が秘めたものであるということについてです。西欧的な観点からいうと、セーラームーンはエンパワメントであると捉えられています。 西欧と日本での認識の違いも検証したいと思っていますが、日本にもそういうポテンシャルが あるものとして考えられているのでしょうか。 一方で、文化的なアプロプリエーションの問題に接触してしまうのではないかと葛藤もしています。とはいえ、セーラームーンはクィアな関係性やフェミニズム的な力、あとはクィア的な家族の形とやトランスのキャラクターなどそういうものを見させてくれたものです。たくさん の事柄を得られたという事実はともて面白いです。おそらく、日本では違うように受け取られ ていると思いますが。 M: 私たちがセーラームーンを見ていたとき、同世代の友達はみんな、セーラー戦士になれると思っていました。主人公は泣き虫でおっちょこちょいですが、キャラクターがそれぞれ違う能力を持っていて個性があって、みんなで協力することで一人ではできないことを達成してい ました。私は今でも友達と協力しあって、なんとかうまくやっていくということを信じていま す。それは、私たちの前の世代とは違うと思います。例えば、わたしの母は「女の子が頑張る」っ ていうと、『エースをねらえ』や『アタックナンバー 1』を例にだして話してきます。それは 精神的にも肉体的にもガンガンしごかれて、辛くて泣きながらも頑張って最後に勝利するとい うスポ根マンガです。それも、たった一人のコーチ ( 男性 ) がいて、彼に才能を見出しされ育てられて成長するって話 ! 一方で、セーラームーンに出てくる男性といえばはタキシード仮面 ですが、彼はバラを投げるだけの優男。ただ同時に、『家なき子』のようなドラマもあって、 それを模倣するように学校で一人の女の子が多数の女の子にいじめられるという構図もありました。 P: 女性の団結のようなことがないということでしょうか ? それは悲しい事実ですし、女性嫌悪が内面化されてきているという現実を反映しているとも思います。 M: 友達が結束するのはあると思いますが、一方で、結束によって誰かを排除するという状況も同時に生じていました。 Pato Wiesauer, Magical Girl Episode 1 (video still), 2017 Video-Essay, 3:55 min P: 細い身体や異性愛的な価値を基盤にしている点において多くの批判があるとは思います が、私がセーラームーンを評価しているのは、彼らは依然として人々の多様性を見せているからです。みちるとはるかは、どんなセクシュアリティを持っているのか疑問を呈されることなく、同じコミュニティに存在することでき、揶揄されることはありませんでした。アメリカ版では、規制によって二人の関係はいとことして描かれています。しかも、男性から女性に変化したセーラースターライツは登場せず、女のような男として描かれたゾイサイトは女性に変え られました。ほんの少しの細部であっても、クィアとして読まれる可能性があった事柄を全て変更したということはとても興味深いです。 M : そうなんですか! それは知りませんでした。作者の武内直子さんはフィギュアスケートが 好きで、そこからデザインを取り入れていらっしゃるようです(8)。体の細さはその美的感覚なのかもしれません。当時の読者としては、はるかが男か女かは全く気にならなりませんでした。 小学生の自分にとっては、まだ、女が男になったり男が女になったりするって、そういうこともあるだろうなあとすんなり了解できた。今思うと、あの頃はまだ性別役割がそこまで自覚さ れていなかったのかもしれません。その後、中学に入って制服などの強制によって、性別を認識するようになったと思います。 アートプラクティスにおいてどう影響しているか Pato Wiesauer, Untitled (not your accessory) 2016, Photography P: 私の世代はマンガとアニメがヒットした時代です。子どもの頃は、ポケモンにセーラームー ン、ドラゴンボールなどたくさんのアニメをテレビで見ることができました。アニメやマンガのお絵かきの広告もたくさんありました。ほとんどみんなアニメを見てた。そのうち何人かはマンガを読むようになっていました。そこから、日本のポップカルチャーに対する興味に発展させていった人もいます。最近はどうなってるかはわかりませんし、テレビでもそんなに放送していないと思います。90 年代後半から 2000 年代まで、オーストリア国民放送である ORF と RZL2 というドイツのプログラムが午後にアニメを放送していました。 ただ、私は 10 代の時にマンガを読んでいましたが、マンガを読むというのはからかいの対象でした。私が美術高校に志願した当時、美術学校はマンガのドローイングを受け入れてくれま せんでした。アニメやマンガの誇大広告がたくさんあって、それゆえ、真面目なものや価値あるものとして捉えられなかったのです。「これはアートじゃないし、そんなもの見たくない。」 という感じです。マンガやアニメの美学に対する芸術分野における拒否は、古典的な差別と関わっていると思います。美術大学では今でも、あまりサブカルチャー的なイメージを見たくないんだな、と感じています。 そういう訳で、マンガやアニメのアプロプリエーション作品や、日本ポップカルチャーに興味を持っているということを明るみに出すには長い時間がかかりました。特に大学での最初の2 年間は、日本のポップカルチャーに興味を持っていることと、アートを勉強することは全く別々のことでした。なぜ一緒に育ってきものを否定しなければならないのか? なぜ私は影響を受け てはならないのか? 今は、幸いにもそういうことをオープンに活動することが出来ています。 M: 日本も同じで、美大に行くと「マンガっぽい」と批判されることがあります。ですが、日本には、村上隆さんを筆頭として西洋アートへのカウンター、マーケット的戦略としてアニメをアートのコンテクストにのせた方がいるので、ビジュアル表現としてマンガやアニメ表現を使うとむしろその文脈を考えざるを得ないのではないでしょうか。 P: 私がファッションスクールにいた頃、私のデザインはアニメやマンガに影響を受けすぎて いると言われたことがあります。私は必死にそれを否定して、その美学から離れようと努力しました。だけど、ファッションドローイングもかなり歪んだイメージを使って、女性の身体を 理想化したりファンタジー化させているのでばかばかしくなります。このようなファッションのドローイングは良いものとして好まれるのに、どうしてマンガ的な目はダメなのでしょうか。 M: 私も小学校の図工で自画像の課題があった時に、目が大きくてマンガっぽいから直せっていわれたことがあります。自分を美化して描くんじゃなくて、もっとリアルに描きなさいということを言われてとても恥ずかしかったのを覚えてます。目に見える現実の世界は、マンガやアニメのイメージの世界とは分け隔たれているんだとその時強く思いました。 今の作品制作でいうと、例えば作品を構想する時のドローイングは、マンガやイラストで描くことが多いです。パフォーマンスのシチュエーションや時間の流れを脳内で構想する時に、マ ンガのビジュアルだとイメージしやすいというのがあります。 遠藤麻衣《フランス・パンさん》2017ポートレート, 撮影:皆藤将 P: 私も同様に、日本のポップカルチャーは私の芸術実践に間違いなく影響を与えています。ドラッグ・クイーンとしてパフォーマンスをした時やセルフポートレートを作った時に、これ らの美学を使いました。最近は、魔法少女というジャンルとテーマを取り入れたビデオ作品も作りました。そこでは、“ 魔法少女 ” という言葉を、女性や男性という二つの枠組みには当て はまらない、トランス * フェミニンのアイデンティティーの同意語として使用しています。し かし、こういった活動もまた、文化を賞賛する一方で盗用しているという表裏一体のものだと 思っており、それに関しても興味があるし挑戦のしがいがあると思っています。長年に渡って 日本のポップカルチャーや文化一般を見てきていますから。クィアやフェミニズムの理論とともに、日本のポップカルチャーを一緒に扱うことはとても刺激的なことだと思います ! M: 私は価値観やものの考え方にも影響があると思います。例えばセーラームーンで、プラネットシステムとそれに対応する守り神、前世、生まれ変わりを知りましたし、最近では宝石の国 が、実際の鉱物の特性に即したパーソナリティを与えたキャラを造形したことによって、現実の鉱物に対して個別のキャラクターを感じ、強く関心を持つようになりました。ただ、思春期に見 ていたマンガやアニメは、それを好きだと自覚しないほど見るのが当たり前だったので、自分の血や肉になりすぎていて、影響が自覚しづらいというのが実情です。大人になって環境が変わったりして、やっとそれが好きなものだとわかるように なりました。そういった世界観や価値観にすでに影響を受けてしまっている自分としては、アートプラクティスでは、影響を腑分けする作業の方が多いと言えます。 (1)  矢沢あい作。1999 年から 2003 年に雑誌『Zipper』(祥伝社)に連載。 (2)  同じく矢沢あい作。『りぼん』(集英社)にて 1995 年から 1997 年に連載。(3) 同じく矢沢あい作。『Cookie』(集英社)にて 1999 年から連載し、2008 年より休載中。 (4) マンガ雑誌『YOU』に掲載されていた。この雑誌の読者層は20代後半からと大人向け。 (5) 『KERA』の有名男装モデル。ロリータモデルの男役として添えられることが多い。たまに可愛い格好をして意外 な一面を見せることも。 (6) 例えば女子は、髪の毛の長さ、スタイル、スカート丈や靴下の色と長さ、ノーメイクと言ったことが規定されていた。(7) 手足が長くて鼻筋が通っていて「日本人離れ」している人を指す言葉としても、当時の雑誌にもよく登場していた。 (8) アニメでシーズンディレクターを担当していた幾原邦彦氏の発言による。

#Editorial

#Conversation

#vol.1

Interview with Pato Wiesauer and Mai Endo: When Manga and Anime Fall on Fashion
#Editorial, #Conversation, #vol.1 Japanese anime and manga have been acknowledged internationally for crossing over nations and cultures. They are accepted in different ways depending on the context in which they appear. In some cases, Japanese anime and manga are highly appreciated as exceeding the range of subculture, and sometimes they are perceived as plain trash. In this context, Multiple Spirits wanted to consider manga and anime from a queer and feminist perspective.    The following interview is a conversation between Pato Wiesauer, who is working as an artist focused on queer and feminist subjects, based in Vienna and Mai Endo, a Japanese performance artist challenging how feminism is being portrayed in Japan. Both have been influenced by Japanese manga and anime as well as fashion culture since their childhood, and this influence leads them their practices as artists. The interview was held at cafe Lazy life which hosts art events and talks. Endo and Wiesauer have broad knowledge about manga and anime. They spoke about how this culture has been accepted in different contexts, and it's a relationship with other fields such as art and fashion.    In times where the Internet allows cultures to spread so easily worldwide, this interview might bring us to questions of what kind of possibilities manga and anime have, how this culture has been alienated and what the main differences can be depending on reception and position. Endo Mai (M): I heard that one of your favorite manga is Paradise Kiss. How did you get to know this? Pato Wiesauer (P): I don't remember exactly, but I was around 13 years old. One of my friends, she is Chinese and was drawing a lot of anime and manga characters. We were both interested in manga and anime. One day she brought Paradise Kiss to school, and I was very much into it. She borrowed me the manga, and I read it in no time. Paradise Kiss has also evened out the path I chose to go in the end. I finally decided to go to fashion school because of the apparently fascinating life as a fashion designer/fashion design student and model in this manga. In Austria, when you’re 13-14 years old, you need to choose which school you are going to attend at a secondary level. So you already need to make up your mind and take a decision about what profession you want to learn. M: So, you made this decision at the early stage of your life. In Japan, we could make this kind of choice around at the age of 15 when we finish junior high schools. In Paradise Kiss, the main charactors are students of a fashion school after junior high schools. I got to know this manga in the fashion magazine Zipper when I was a junior high school student. Influenced by this manga, I also wanted to go to a school to study fashion, but I didn't have any sense of reality to go to the school and live by myself at the age of 15. In the end, I decided to go to a local high school and belonged to an art club. P: I knew that the manga appeared in Zipper. At that time, I already downloaded Japanese magazines online, looking for pictures and art books. There were a lot of fan pages of Ai Yazawa, and they scanned books. Also, the author wrote some background information on columns on the side of the manga, and I learned that it was in Zipper. Everything was translated into German. M: I see. Have you also read Neighborhood Story ? P: In the German-speaking context, NANA came first, and Neighborhood Story was translated after a few volumes of NANA. I really like the aesthetics of Neighborhood Story with the 80's and the 90's style. Also, it was amazing that all characters were deeply characterized, and they have own personalities. I love how they work together as a community and realise big projects. Sadly, the author became sick and stopped producing NANA. There are many people waiting for a closing of the story. Sometimes I also Google to see if there are any news. M: In Japan, there was a strong liking between manga and fashion, like Zipper, in the 2000s. When I was a child, I thought the fashion appearing in manga was dowdy and unfashionable and didn't have any connection with the actual fashion trend. I was amazed when I read Neighborhood Story in the manga magazine Ribbon because this manga connected the world of a fashion magazine with manga for the first time. The characters in the manga and amateur models in the fashion magazine were following the same trend. Then Zipper started to run Paradise Kiss which was the sequel to Neighborhood Story. So, the reader of this manga naturally begun to read the fashion magazine, making the connection between both media. Also, at the same time, another fashion magazine Cutie ran the manga jellybeans by Moyoko Anno. The magazine had extra numbers for handmade with patterns for clothing. It was very popular to make what we want to wear by our hand. P: I also used to download patterns of Lolita clothing items back then. M: There were many amateur models who appeared in fashion magazines, and each of my friends admired different amateur models. P: The pop singer, KYARY PAMYUPAMYU, used to be an amateur model too. The good thing about Tokyo Fashion is that they were actually scouting real persons, not just models. I also liked the magazine KERA which showed different ways of coordinating Lolita brands with other styles. It was really exciting. M: In 2006, there was the manga Real Cloth, which is a kind of Japanese version of The Devil Wears Prada. At that time, fast fashion like H&M was blooming in Japan, and its protagonist was a buyer of a department store. It was about how the department store could survive in comparison with fast fashion. P: I've also read some articles about how street fashion culture in Harajuku suffers from the effects of fast fashion. I feel like nowadays everyone seems to be wearing the same clothes. Compared to a few years ago, there used to be more variety in styles. Recently even Lolita Brands have closed down their stores or even the brand as a whole. M: I think the fashion trend gradually turned to simpleline-oriented, like normcore, or MUJI and UNIQLO. When I worked as a shop assistant of Banana Republic in Ginza in my early twenties, I was feeling that eccentric fashion became to be considered pathetic because they worked too much on dressing up. At that time, people started to buy low-priced and basic clothes which were easy to coordinate with others, rather than extravagant and conspicuous one. Maybe fashion has not been the place to show identities anymore. Pato Wiesauer, Doll becomes them2014, Photography P: By staying up to date with Japanese fashion magazines and blogs, we can observe how quickly trends evolve and disappear. Throughout the 2000s and even earlier Gyaru culture and Lolita fashion reigned supreme for years. For my graduation project in the school, I wrote about the evolution of Japanese street fashion from the ’50s on with a focus on Gyaru and Lolita culture. I even made a fashion collection inspired by Lolita fashion including 15 original designs and patterns. How do you perceive "genderless" in fashion? P I read an article about "genderless" on tokyofashion.com featuring people like RYUCHELL or Pee. A lot of my friends told me “Omg, this is what you've been doing for years and now it became a trend!” I think it's great that the trend has involved in this direction. However, my impression is that everything in Japanese pop-culture is inherently superficial. It's all fantasy just happening on the surface and not about living a certain kind of way. But compared to fashion in Europe, at least people in Japan don't seem to judge or threaten people who wear "genderless" fashion. There has been a trend called Dansou, where women wear mostly men's clothing and style accordingly. I have been to several European Lolita fashion events including a tea party in Amsterdam. I met Akira, a boy-style Lolita model, there. When I was smoking outside, she came, and my friend and I asked to take a selfie with her after which she asked me with a shocked expression: "You're not a woman?" Akira was shocked after finding out I was not a cis-woman. Later that day I overheard her talking to her translator about me "Is that girl a man?" I was completely irritated that the model wearing boy-style had no acceptance or knowledge about non-binary or transgender identities. To her, it seems to be just a costume that is being put on. I mean there's a lot of characters in manga and anime that embody trans or non-binary identities, but at the same time, in reality, trans people are dismissed from family or can't find any job or whatsoever in Japan. It is like being trans is ok as long as you are being watched from a distance or in the entertainment industry on a screen, magazine or stage. But there seems to be no tolerance for a living human being who is neither female nor male. Differences in Receptions of Aestetics of Manga and Anime M: For example, the characters appeared in Paradise Kiss were basically minorities in society. They couldn't go through a "normal" path, and therefore they made a community and a fashion brand by themselves. The readers are into the story while feeling sympathy how the characters realize their dream as well as incompatibilities with "ordinary". However, the culture in Tokyo depicted in the manga seemed to be unrealistic to me who grew up in the countryside where school's rules were strict. I couldn't have a variety of choice what I could wear. Therefore, I couldn't connect the world in the manga to my reality. I think many people are thinking like this. More than that, other mangas, like Boys Over Flowers or Peach Girl, which set at an ordinary high school, seemed more realistic to me. They showed realities of high schools such as bullying, failures to obey school regulations, or troublemakers. But, these mangas are based on the heterosexual norm, especially the romance between a hot boy and a girl as the main protagonist. Once, I also used to be a Lolita, and I felt that wearing Lolita fashion itself made people keeping away from me, and it was a kind of armor. P: That seems like how being a drag queen used to be a coping mechanism or a form of armour to me a few years ago. It's interesting how you say that manga opens ways to portray minorities that form a community together and can be sympathised with. Paradise Kiss didn't end with a happy and straight love relationship, and also it showed a good representation of gay and transgender identities and made them visible and relatable. It was weird when I read the manga for the first time because I didn't know much about it. Do you think is there any manga with a feminist perspective? M: I think there are some manga with a feminist perspective. But nothing occurs in my mind if we think about feminist manga regarding an independent woman who has a strong mind to change the society, like current Disney movies. But, for instance, Kodomo no Omocha (Children’s Toy) shows a different kind of relationship in between families, and the main girl character fights resolutely against bullying at school trying to change the situation. On the other hand, Kingyo Chuuihou! (Goldfish Forecast!) is a comedy manga producing parodies of patterns of the girls' manga with a self-critical attitude. When I read this manga in my childhood, I felt strange since the protagonists don't show any internal emotions. But I want to read it again now from a feminist point of view. P: What we can do is to take all the feminist perspectives from existing anime and manga, and take what we think is empowering to us. A movie which I saw was also quite empowering to me. Do you know a film Kamikaze Girls? Anna Tsuchiya was one of the actresses and also a model in Zipper. M: She made her début as a neat and clean girl, but she switched her style to rock and punk. P: But still, it's only about fashion. Nothing else is seen critical of it, isn't it? Lolita communities in a western context say Lolita fashion is not just about fashion. For them, it is a lifestyle. Even when they don't wear full Lolita, it doesn't mean that they're not Lolitas. Lolita culture has been transformed and appropriated, and meaning has been into the culture by western followers and communities. In Vienna, there is also Lolita fashion association that organises international tea parties. Once we had a talk event with a Lolita fashion designer, and one of the questions was if Lolita is a lifestyle. The designer said that for her it's a "just fashion". M: When I wore Lolita fashion, I could do only weekend, and the fashion wasn’t directly connected to my lifestyle. Somehow, I can understand what the designer said. Because if it is just a fashion, it can be easily attached or detached with dodging any responsibility. P: Wearing Lolita means belonging to the community foremost through fashion. I think Gyaru was also considered more as a community. In Europe, when people in Lolita are being asked if they wear cosplays, this question is deemed to be rude. For European Lolitas, their outfit is not a costume but rather a political statement. I'm starting to write my diploma thesis about the queer feminist potential of Sailor Moon. It is perceived as empowering from a Western feminist perspective. I want to work on the differences between Western and the Japanese perception. I'm wondering whether there is also a potential for empowerment in Sailor Moon in Japan. However, I'm conflicted about touching subjects of cultural appropriation. But still it shows queer relationships as well as feminine power, and even queer family structure and trans characters. It's interesting to me that I can take many things from it. But, in Japan, it seems to be different. M M: When we watched Sailor Moon on TV, we believed that we could become one of the Sailor Soldiers. Although the main character is a crybaby and scatterbrain, she achieves big things that she cannot do by herself by cooperating with friends around her. The friends have different abilities and personalities. I still believe that we can manage many things through cooperation between friends. But this is different from what the previous generation thinks. For instance, my mother thinks that "girl's power" is something like a story which appeared in sports manga, such as Aim for the Ace! or Attack Number 1. This genre of sports manga shows stories which a girl has to go through hard training mentally and physically to be a winner. In addition, the story has a structure that a manager (usually a man) finds her talent and trains her, and she can grow up depending on the manager. But, in Sailor Moon, there is only a man, Tuxedo Mask. He has a gentle manner, and he just throws a rose. At that time, there was a TV drama Ienaki ko (the child without a home), and therefore, there were many cases at schools that one girl was bullied by many girls as if they imitated the drama. P: Do you think that there is no such thing as solidarity among women? That's such a sad fact and it shows how women have also internalized misogyny. M: I think there have been unities of friendship, but on the other hand, these unities have produced exclusion of certain person. Pato Wiesauer, Magical Girl Episode 1 (video still), 2017 Video-Essay, 3:55 min P: What I appreciate in Sailor Moon, although there are many things to be criticized about like heterosexual values as well as fatphobic body images, they showed a diversity of people. Michiru and Haruka can still exist in the same community, not being questioned about their sexuality. They have never been ridiculed. In the American version, the couple was even made as cousins due to heavy censorship. They were not in a romantic relationship. In addition, Sailor Starlights who transformed from male to female was never shown, and Kunzite was changed to a woman even though he was an effeminate gay man. It is very funny that they changed just a few small details that can be read as queer. M: Oh, really? I didn’t know that. The author of the Sailor Moon, Naoko Takeuchi, likes figure skating and she adopted its aesthetic into the design of the manga. The skinny body probably came from this. When I watched Sailor Moon, I didn’t care about which kind of sexuality Haruka, because I still believed that a male could transform to a female and vice versa without any awareness of sexuality and gender. Later, when I had to wear the school uniform at the junior high school, I become to be aware of it. How Manga and Anime influence on your art practices? Pato Wiesauer, Untitled (not your accessory) 2016, Photography P: In my generation manga and anime were a big hit. When I was a child, a lot of anime, for example, Pokémon, Sailor Moon as well as DRAGON BALL were shown on TV. There was also big hype of anime and manga drawing. Almost everyone my age was watching anime at that time. Some people also started reading the manga. Through this, some developed their interest in Japanese pop culture. I don't know how it is nowadays. There's not much shown on TV anymore. We used to have ORF, the Austria National TV program and RTL2, a German program that showed anime in the afternoon from late the 1990s to the 2000s. But still, reading manga was ridiculed when I was a teenager. I remember that when I was applying for a fine art high school, they didn't want to accept manga drawing, because there was such a hype of manga and anime and people didn’t take it seriously or consider it valuable. "It's not art, and we don't want to see that". I even think the rejection of manga and anime aesthetic in the field of fine arts has to do with classist discrimination. In the university, I still feel that they don't want to see these kinds of subcultural images. That's why it took me some time to show my appreciation of anime and manga and interests in Japanese pop culture openly. Especially first two years in the university, being interested in Japanese pop culture and studying art were two separate things. Why should I deny what I grew up with? Why should I not be influenced by it? I'm happy that it is possible now for me. M: Same in Japan. Sometimes, “it looks like manga” is used to criticise works in art universities. But, as Takashi Murakami among others put these culture strategically into contemporary art context as a counter against Western art within art market, it is inevitable to consider these contexts if we want to think about its aesthetics as visual expression. P: When I was in the fashion school, my designs were called out being too influenced by anime and manga. I really tried to deny that and get away from that aesthetic. At the same time, it's ridiculous how fashion drawing also idealizes and fantasizes about the female body with heavily distorted images. These fashion drawings were ok and welcome, but manga eyes were not ok? M: Also, my art teacher at the elementary school asked me to change my eyes I drew in my portrait because, she said, big eyes looked like manga. I felt ashamed because she told me that we should not idealise our face, but should make a realistic portrait. I felt strongly that the world in front of my eyes was separated from the world of manga and anime. Regarding these visual aspects, I often draw anime and manga images and illustration when I'm planning new works. It is easy for me to design the situation and time flow of my performance in my head when I use the visual aesthetic of manga. P: Japanese pop-culture has definitely influenced my artistic practice, too. I used to use the aesthetic when I was performing as a drag queen and also in some of my self-portraits. My most recent work deals with the genre of Mahou Shoujo - Magical Girls. I use the term magical girl as a synonymous for my non-binary and trans*feminine identity. However, it is still always a thin line for me between appreciation and appropriation that I find so interesting and challenging. I've been dealing with Japanese pop-culture for years. Bringing together queer and feminist theories with Japanese pop-culture is very exciting for me. Mai Endo, Portrait of Francepan, 2017, Portrait, Photographer Masaru Kaido M: I think there is also influences on my way of thinking and values. For example, I learned the planet system and its corresponded guardian deities as well as previous life and reincarnation from Sailor Moon. Recently I got interested in minerals because the manga the Kingdom of Jewellery shows characters with a personality of each actual mineral. However, it was too natural to read manga and watch anime in my adolescence, therefore it was difficult to have a distance from them, and even I didn't know I liked them or not. As I grew up in changing environments, I finally realised that they have influenced me. In my art practice, it is more important to distinguish these influence. *The interview originally appeared in Multiple Spirits vol.1, and it was edited for online. Courtesy of the authors.

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#Conversation

マニフェスタ12 リポート(パート1)
#Editorial, #Blog, #Conversation 『マニフェスタ(Manifesta)』はヨーロッパの都市で2年に1度開催される国際展。前回2016年はダダ100周年を迎えたチューリッヒで開催され、12回目となる今年のマニフェスタは地中海の浮かぶイタリアはシチリア島のパレルモ。せっかくの機会ということで、ウィーンからカターニアに降り立った私たちマルスピ編集部こと丸山と遠藤は、カターニア空港からバスにてパレルモに向かいました。 批評でもなくレビューでもなく、回想しながらの会話形式でマニフェスタの様子をお伝えします🌙 まずは、1日目と2日目! ❤️1日目❤️ 丸山美佳(以下🌵):麻衣ちゃんは初めてのイタリアとのことですが、シチリア島はいかがでしたか? 遠藤麻衣(以下🍋):すごく湿気が多くて暑かった...。でも街並みは見た感じ乾燥していて、全体的に薄茶色い。砂や岩が多くて、緑が少ない。第一印象は生き物が生きにくそうな感じがしました! 🌵:パレルモ行きのバスからの景色は永遠に乾いた丘みたいなのが広がっていて、ここでは絶望するとか話していたよね。 🍋:そうそう。だって、地面からはミミズとか虫とか生き物の気配がしなさそうだし、視界全部が薄茶色い砂地を一人延々と歩くことを想像すると、気が違いそうだなと。こりゃ土から信仰は生まれなさそう、とか空を見上げたくなる場所だとか話していたね。あとは、植えられている木が何か当てる、ということもしていた。 🌵:そうそう、私は密集している野生のサボテンに夢中だったんだよ。カターニア空港にも生えていたけど、あれが密集している姿はすごいというか、いままでに見たことがない生命体のようで私はすごく感動した。 🍋:変な形だったねー!平べったい葉っぱとも茎ともつかないものが接合されてて。他にも柑橘類が植樹されている場所やオリーブの樹を見つけて二人で妙にテンションが上がったね。薄茶色い砂地がずっと続いている時に、植物を見つけると仲間を見つけた!みたいな気分になって、一個一個の植物の存在感を強く感じた。 🌵:その意味でマニフェスタのタイトルが「The Planetary Gerden. Cultivating Coexistance.」で庭というか植物を展覧会を包括するメタファーとして使っていたのは、シチリア島の地理的な条件ならではであったのではと、後からこの会話を振り返って思った。 🍋:まさに。場所に連想を促されていた。 というわけで、パレルモに着いた私たちはとりあえず寝不足だったのでホテルで仮眠をとり、ビーチに向かう準備。というのも、マニフェスタの映画プログラムが行われているTeatro Garibaldi(中心地からバスで20分くらい、1.5ユーロ。道中はワンダーランド。)はまさにビーチの真横!シチリア島に行って泳がないわけないということで、とりあえず、泳ぎました。 🌵:ビーチのクオリティはまあまあでしたね。 🍋:厳しい(笑)どこまでも浅瀬だった。サイドに見える山の上に変わった遺跡があった! 🌵:あれは遺跡なのか、モダン建築物なのか謎だった。あと、イタリア人男性がみんな白シャツジーンズに素足の靴だったのが笑えた。 🍋:うん、やっぱりそうなのかと納得してしまった(笑)そしてみんな太陽のような笑顔。バーの店員さんもお客さんもみんな白シャツだから、どの人にオーダしていいか悩んだ...。 🌵:リゾート地だからかえって性別を強調するコンサバな服装が多いと思った。そんななか、私たちはTeatro Garibaldiで真面目に21時から映画を観たわけですよ。『それは息子だった(原題:È stato il figlio)』 (2012年) というパレルモが舞台になった映画で、おそらく監督がトークしていたよね。イタリア語で全く理解できなかったけど。 🍋:うん、あれは多分監督だったと思う。とにかく気持ちがいい場所だった。 🌵:野外だし、日が沈んで海から良い風が入ってたよね。麻衣ちゃん、映画の最中も気持ち良さそうに寝てたもん。 🍋:もうサイコーだった。ロッキンチェアにどかっと半分寝転んでいる状態で、ほろ酔いだし。でも映画の初めの方は見ていたよ。 🌵:本当か疑わしい(笑)。内容としては、パレルモのある家族の話なんだけど、マフィアに娘を殺されて、その慰謝料を巡って生活が破綻していくってストーリーでシリアスに見えるのにコメディだった。 🍋:そうそう、父親の演技が、憎めないキャラクターを醸し出していた。父親、母親、祖父母、息子、娘、弟夫婦の家族構成だよね。途中、その家族がビーチへ車を出して泳ぎに行くシーンがあったんだけど、まさにさっきまで私たちが泳いでいたビーチにはそんな家族づれがたくさんいて、これがこの街のリアルなのかなあと想像したりした。街の狭い路地で子供達が空のスプレー缶を焚き火に放り投げて遊ぶシーンがあって、爆発しそうで見ていてハラハラするんだけど、それもここではよく行われている遊びなんだろうか、とか。 🌵:それわりと映画の冒頭部分(笑)。映画観た後で知ったけど、シチリア島はマフィアの発祥地。マフィアとの関係性とか映画で描かれた人々の暮らしとか、コメディとはいえパレルモの街への導入として良いスタートだったと思う。 そんな感じで映画観て23時ころにマニフェスタ1日目終了。 ❤️2日目❤️午後からやっと重い腰をあげていざマニフェスタへ。ひたすら暑い。39度で日差しがヒリヒリする。この時期にパレルモに行くのは、バカンス以外ありえない。アートを見ている場合じゃなかった。とりあえず、ホテルから一番近かった会場Palazzo Buteraへ。 🍋:パレルモはほとんどが石造りの古い建物だと思うんだけど、ここの会場もそうで、少し装飾的な内装だった。入った最初の部屋には映像が置いてあって、黄色いレモンが映ってた。 🌵:マニフェストのほとんどの会場はおそらくアートインスティチューションとして使われていないところだったよね。Palazzo Buteraの会場は展覧会全体として、女性とかマイノリティー以外の存在が不在にされていたのが印象的だった。つまり、声を持っているのは移民と女性、あるいは植物だけというか。 🍋:植物の鉢がたくさん並べられていたり、花柄の壁紙が廃墟の中で一角鮮やかに貼られていたり、床一面にテラコッタが敷き詰められて、そこに街の植樹の痕跡がマッピングされていたり、不在にされていた人とその植物を絡めていた? 🌵:パレルモで作られたマニフェスタのコミッションワークが多かったからか、作品からパレルモの特徴をつかんでいくことができる場所だったからかも。概要的なパレルモの歴史は知っていても、近現代についてはやっぱり情報として入っていなかったから、彼らの声からパレルモを捉え直していくというか。例えば、地中海の地理的な状況下における樹木についてもそうだけれど、昨今の難民の話とマフィアへの抵抗運動の歴史が挿入されていた。あと、ブラジルなど移民の人たちの奴隷貿易の文脈を植物の「plant」に掛けている。アーティストでいえば、Maria Thereza AlvesとかUriel Prlowとか。 🍋:印象的だったのはウィッシングツリーにフォーカスを当てていたこと。日本でいう七夕のように、人々が書いた願いをくくりつけられた樹で、抵抗運動をしている人をその樹の視点から見下ろすような映像があった。俯瞰の視点が土地から完全に体が切り離されたものではなくて、あくまでも地に根を張ってる。 🌵:Uriel Prlowの作品だよね。なかでも、マフィアへの抵抗運動が戦後パレルモの共産主義的な動きと女性のエンパワーメントと繋がっていた文脈とか面白かった。映像に映されていたのも女性と難民だけで、あとは現代に続くデモンストレーションの中の大衆の姿。マフィアとかマフィアによって殉職した男性たちは描かれていないか死んでる(笑) 🍋:女性たちが協力してマフィアへの抵抗としての不買運動をしていたこととか、殉職した人を忘れないで生活していることとか、市井の一人一人の意識が大きな抵抗に繋がっていることを理解した。 🌵:このあたりで、1日目に観た映画もそうだけど街が背負っているマフィアの歴史を感じたし、殉職した人たちのイメージが街中にも掲げられていることに気づいた。 🍋:そうだね。この会場を出た後に、また同じ道を通ったんだけどさっきまで気がつかなかったポスターの意味がわかった! 🌵:でもこの会場で唯一、Melani Bonjoの作品は浮いたいたような気がするのは私だけかな? 彼女の作品大好きだけど。 🍋:彼女のはコミッションワークではなくて、過去作の映像を流していたからかな。植物で連想的に繋がる、という感じ? 🌵:うん、文脈的にはバッチリ。私は去年フランクフルトで彼女の個展に行っていて、全て映像観たことあるんだけれど、人間の尺度で自然を話すことの奇妙さとか、それを彼女の場合はクィア・フェミニズムの文脈かつスピリチュアルでセクシュアリティーを含みながらアプローチをする作家というか。その意味で、自然と人間っていう近代がもつ二元論的な関係性がもともと想定されていない。 🍋:彼女のインスタレーション空間は生の植物が鉢植えで展示されていて心地の良いものだったんだけど、他の作品のこの土地に根をはっている植物についての話と違って、彼女の鉢植えはポータブルというか。彼女の作品の突っ込んだ部分までは共鳴していなかったような...。 🌵:会場暑かったから、あんまりゆっくり観なかったしね(笑) 🍋:そうだね、観ていないからわからない。 🌵:その次にいったPalazzo Trinacriaは作品一つだけ。ベニスビエンナーレの時に行われたパフォーマンスのドキュメンテーションなんだけど、それを観に来たお客さんがパフォーマンスが行われてないことにキレている会話と海の様子だけだったね。 🍋:見応えのあるパフォーマンスを期待していたのにやっていないってどういうこと?!って不満を述べていた。私はちょっと苦手な感じがした...、アーティストが意識高いところから作ってるのかなあと思って。 🌵:しかもPalazzo Forcella De Setaは、最初からプロパガンダ臭のする場所でしたね。 🍋:そうだったね。ここは、国によって支援されている作品が目立った。 🌵:入口にあったドイツの移民の映像作品が本当にプロパガンダにしか見えなかったことからそうゆう印象を持ってしまったんだけれど、どの作品も全てといっていいほど、マニフェスタに参加している国が抱えている問題、例えば難民であったり植民地主義の歴史、ISとかを扱ってた。それが、国の文化的インスティチューションにサポートされているから、どうしてもヨーロッパの”善良”なプロパガンダに見えてしまったというか。 🍋:支配を受けた人や難民の側に寄り添ったインタビューがダイレクトに提示されている映像。そう、この場所で一つ、胸をついた作品があった! 🌵:John Gerrardの『Untitled (near Parndorf Austria)』(2018年)。 🍋:オーストリアの高速道路を走っていた、71人の難民を乗せたトラックが横転した事故を受けて作ったデジタル映像作品。 🌵:しかもシュミレーションでできているんだけど、長さが365日24時間(笑) 🍋:今まさに映像の中の世界を生成している...んだよね?だからずっと平行世界がつづいている、私たちが見終わったこの先も。映し出される事故が起こったその高速道路には誰もいなくて、その場所がデジタルの中で半永久的に保存され続ける。 🌵:トラックが横転していた場所には何もなくて、不在がまさに強調されていたよね。その意味で現代の新しいモニュメントとして機能しているような作品だった。あと、後から気づいて3日目にこの会場にもう一度戻ったんだけど、私たちは作品を一つ見落としていた。 🍋:そうだった。ここまで見た作品から、ヨーロッパ〜中東〜アフリカの歴史的関係を拾い上げる態度が伝わってきていたけど、見落とした作品は、シチリアに駐屯しているアメリカ軍の存在を扱ってた。 🌵:マフィアとか難民について扱っているのに、アメリカへの言及がないよ、とか思っていたら、しっかり取り上げられていた。もちろん、悪者として(笑)。しかもアメリカ軍が新しいコミュニケーションシステムを作っているらしくって、それがネットワーク上の監視と戦争に関わっているとのこと。実はマニフェスタにはタイトル以外にもキュレーションの三本柱があって(「Garden of Flows」「Out of Control Room」「City on Stage」)、この場所は「Out of Control Room」。国が持つ力とともに、見えないネットワークの繋がりについての作品が集められた空間としても機能していたらしい。 🍋:米軍基地とその外を隔てるフェンスがあって、そこを飛び越える黒人の人がいた。人種と基地との関係も複雑に入れ込んでいた。 🌵:全体的に奴隷貿易とか移民の問題もかすかに見えてきたよね。しかも、アメリカ軍がこの施設に関して隠していたりもしたり。でも、この作品はシネマプロジェクトとして行われていて、数人のドキュメンタリー映画監督たちがそれぞれの視点でこの事実にアプローチしていたから、映像も多かったし全部観きれなかった(あと暑いし)。 🍋:印象に残っているのは、誰もいない広大な草むらにドローンを飛ばして、その草むらを抜けた先に大きなパラボラアンテナを見つける映像。 🌵:あれがシチリアの現実だったか、というのを突きつけるよね。こんな小さな島だし観光地なのに、でもアメリカ軍もいます、みたいな。いま思うと、本当に沖縄と同じようにも見えてくる。 🍋:確かに言われて見ると。このマニフェスタは、最初にチケットを買ったときに地図を手渡されて各所を巡るんだけど、シチリアの観光地ではない場所を通るようになっていた。歩いて見ると、白シャツにジーンズのイタリア人は少ないし、人種もバラバラ、アジアのどこかの国にいるような気持ちになることもあった。 🌵:この会場の目の前の木陰に黒人のホームレスたちが自分たちのアジトを作っていたのも印象的だったし、この通りはパレルモのボーイズクラブ的な場所で、ローカルな歯のないようなおじいちゃんたちがたむろしていた場所だよね。 🍋:そうだったー。路面にパラソル付きのテーブルを出しておじいさんがたくさんいて、その間を通るのはちょっと緊張した。その近くの小さな商店に入ったの覚えてる?マドンナのMVがかかっていて、それが印象的だった。マニフェスタってなんか秘密結社の集会ぽいっていうか、おそらく住人のほとんどはその存在を知らなくて。それに比べてマドンナの影響力ってどんだけすごいんだ!と思った。 🌵:知ってても、観光産業の一環としてくらいにしか考えていなかったんじゃないかな。マドンナは超人すぎて、MV観ても本人か逆にわからなかった。で、そのあとにOrto Botanico。この植物園は一番興奮した。(下の写真はマニフェスタと関係なく常設されているマリオ・メルツ) 🍋:うん!ミカちゃんはサボテンに取り憑かれたように魅了されていたね。 🌵:いままでサボテンにこんな興味持ったことなかったんだけど、あれは不思議な生き物だよ。この植物園はおそらくマニフェスタのキモ。1789年にパレルモの医療とか植物の自然史研究のために作られたものらしく、そこから外来種の研究場所として発展していったみたい。もちろん、植民地支配の影響もあるしね。興味深かったのは、保存とかしている施設もあったけれど、植物園全体を見ると、厳密に管理はされていなくて、密生しているし、熱帯の気候だからどれも大きくそだっている。 🍋:そうそう!細かいことは気にしない懐の深さを感じる一方、展示されている作品からも保存に対する人間の手つきが見えてくるんだけど...、大雑把なんだよね。 🍋:植物を保管するときに、乾燥させた植物を薄紙で挟んで本のようにして保管するというところからおそらく着想を得た、魚拓ならぬ植拓を作るMalin Franzénの『Palermo Herbal』は、大きな竹をアーティストたちが紙で挟んで足と手で踏んで竹をめりめり言わせながら作ってて、非効率的で雑だなあと思った(笑) 🌵:あれはイタリアクオリティなんだろうか? 基本的に適当(笑)。 🍋:他にも温室にコミッションワークで、綺麗に額装された作品が展示されてたけど、ガラス面に水滴が付いていたり、劣化が早そうでヒヤヒヤした。Alberto Barayaの『New Herbs from Palermo and Surroundings. A Sicilian Expedition』、アーティストがシチリアで見つけた、供物として使われている造花を標本にした作品。 🌵:うん、でも一方で熱帯気候における展示のチャレンジを感じたよ。劣化の問題もあるけれど、日本では考えられないほど大き育った竹林のなかにモニターとメディアプレーヤーとか!ビニールで囲っているんだけど、そのビニールの掛け方もまた適当。でも、あの作品よかったよね。Zheng Boの『Ptridophilia』。竹林でみるエクスタシー。 🍋:大いに笑ったね、あの作品。複数の男性が裸で生い茂った山に分入って、好きな植物を見つけて戯れて最終的に射精していた。 🌵:植物園自体に蚊がいて私はとても恐れていたんだけれど(結果的に20箇所くらい刺された)、裸体で植物が密生することへのなんだろ、エクスタシーとは別の身の危険も感じながら私は観ていたよ。 🍋:それに葉っぱって鋭利だし、戯れると身体中怪我だらけになりそう。 🌵:解説にeco-queer potentialって書いてある(笑) 🍋:ポテンシャル...どういうことなんだろう。ところで、この植物園ゾーンは保存に対する人々の手つきに付いて扱っているのかなと思ったんだけど、この作品はそういう意味で考えるとなんなんだろう。だって、植物と性交しても種を残せないし、保存の失敗について扱っている、ということなのかな... 🌵:Melani Bonjoと同じ立場といえばいいのかな・・? 解説によると、シダ植物は台湾に住む部族にとってはとても大切な植物なんだって。いっぱい生えているし。でも、日本植民地時代と中国政府によって見落とされていたおいう背景が描いてあるけど、映像からはその歴史は伝わってこなかったよね。 🍋:うん。放出された精子が、山の中で行き場なく散っていく哀れを感じた。 🌵:あと展示としてグっときたのは、植物が化石になっている石炭を撮影した写真シリーズを、植物園の隅っこにある石灰石の薄暗い廊下に展示していたMichael Wangの『The Drowned World』とか。 🍋:そうだった。自然が保存した植物の化石を示す写真作品。この作家は他にも作品を出していてた。植物園の壁に橋渡しをつけて、隣を上から覗き込めるようにしていたんだけど、植物園の隣は化石燃料の発掘所?だったっけ。 🌵:いや天然ガスの発電所があった。何万年という生物の営みと保存が一つの枠組みとしてあるんだけれど、でもその地下に眠るエネルギーが産業革命を進めたていったし、後にいかにエネルギーを手に入れるかで植民地支配が強化されていくとか、現代に続く問題といろいろ繋がっていく。だから、マニフェスタにおける唯一のペインティング作品といってもいいと思うけど、ペインタリーな作品がイタリアに住む”西洋”の黒人が描かれたものだったのはとても示唆的というか。もちろん奴隷貿易もあったし、そこから発展した文化的な交流について言及した作品ともいえるけど。 そんな感じで2日目終了。ちなみにマニフェスタは夜の20時まで開いていたりするので、午後をフルで作品を見ることできます。もちろん、植物園は作品抜きでかなり面白い。3日目へ続く。

#Editorial

#vol.1

日本における多様な性をもつ子どもの現状と教育現場で求められる対応
#Editorial, #vol.1 藥師実芳 (特定非営利活動法人 ReBit 代表理事 ) 日本において、LGBT の子どもは残念ながらハイリスク層である。   国内 7.6% (1) とも言われる LGBT が、自殺におけるハイリスク層であることは、「自殺総合対策大綱」(平成 24 年 8 月 28 日閣議決定)にも明記され、性同一性障害 者の約 58.6% が自殺念慮を抱き、特に自殺念慮が高まる時期が思春期の中学生の頃であるという。また、LGBT の子どもの約 68% がいじめや暴力を経験し(2)、性 同一性障害者の約 29% が不登校を経験(3)する。LGBT の子どもも安全に通える学 校づくりは全ての子どもの教育機会を保証の観点からも重要である。  2015 年 4 月 30 日、文部科学省から「性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ 細やかな対応の実施等について」という通知が出され、学校現場において、性同 一性障害を含む性的マイノリティの子どもたちに対しての支援や、教職員や子どもたちの理解向上に努める必要性が明記された。また、2017 年 4 月から高校教 科書の一部に、2019 年 4 月からは中学校教科書の一部に LGBT という言葉が登 場する。しかし、2017 年の学習指導要領の改訂に LGBT に関する文言は入らなかっ た。 オリンピック憲章に性的指向による差別を禁ずる文言が入り、2020年の東京オ リンピック開催に向け、日本では自治体による条例策定の動きや、企業の取り組 みの増加や、東京でのプライドパレードは 12 万人を超える想定がされるなど注 目が高まっている。このような注目を「LGBT ブーム」と揶揄されることもあるが、 子どもの命はブームでは語れない。 LGBT を含めた全ての子どもがありのままで 大人になれる社会を築くためにも、教育現場での継続的な取り組みが期待される。 (1) 平成 27 年 電通ダイバーシティラボ (2) いのちリスペクト。ホワイトリボン・キャンペーン、平成 25 年度東京都地域 自殺対策緊急強化補助事業「LGBT の学校生活に関する実態調査 (2013)」 (3) 新井富士美・中塚幹也他 (2008) 性同一性障害の思春期危機について 日本産科婦人科學會雑誌 60 巻 2 号 827, 第 60 回日本産科婦人科学会学術講演会より

#Editorial

#vol.1

Current Situation of Children with Diverse Gender and Correspondence Required in the Field of Education in Japan
#Editorial, #vol.1    LGBT children are unfortunately a high-risk group for suicide or suicide attempts in Japan.    "The fundamental principles of comprehensive policy for suicide ", approved by the Japanese cabinet on August 28, 2012, specifies that LGBT people, which comprises 7.6% of the population, belong to the high-risk group. Nearly 58.6% of them have considered committing suicide, and the frequency of this consideration is particularly high adolescents as a student at junior high schools. In addition, nearly 68% of LGBT children have experienced bullying and violence at schools, and around 29% of transgender students went through refusal to attend school. In terms of guaranteeing the education for every child too, it is crucial to create schools where LGBT students can participate safely.    On April 30, 2015, the Japanese Ministry of Education issued the note "About the enforcement of careful correspondence to students with gender identity disorders", stating the necessity to support students of sexual minority at schools, including those with Gender Identity Disorders, and to improve the understanding of the school staff and students about the issues involved. However, the revised edition of the government curriculum guidelines in 2017 did not include any word about LGBT.    As the Olympic Charter incorporated phrases to prohibit discrimination of sexual orientation, the attention to LGBT issues is growing in Japan in time for the Tokyo Olympic Games in 2020. Local governments are working to establish ordinances for LGBT, companies are increasingly engaged in LGBT activities, and it is estimated that more than 120,000 people will take part in the pride parade in Tokyo. Such attention is sometimes ridiculed as an "LGBT fad", but we cannot treat the protection of the lives of children as a mere “boom”.       To build the society where all children including LGBT children can grow up as they are, the engagement with the issue must continue in the field of education. By Mika Yakushi (The NPO Corporation ReBit) *The text originally appeared in Multiple Spirits vol.1. Courtesy of the author.